北東北の奇祭


北部東北地方には、お祭りらしからぬ他では見られない変わったお祭りがある。


中でも秋田男鹿のナマハゲは、わざわざ子供を怖がらせる。日本には、同じようなヤマハゲ、アマハゲとかの来訪神もある。


五穀豊穣をもたらすありがたい神様だ。


同じように鬼や妖怪のような風貌の来訪神の行事は、能登、沖縄八重山・石垣にもあるらしい。


家々を練り歩くものとしては、獅子舞が私にとってのナマハゲに近いものであった。何故か子供は皆頭をガブリとやられる。


子供心に怖かった思い出がある。


子供のうちに怖がらせる行為は賛否両論あるかもしれない。わざわざトラウマを作る必要はない、という説と、畏怖するものを知っておく事こそが重要だとする説である。


私は断然後者の論である。


畏怖の心は、人間性の全ての源泉と言っても過言ではない。人間が人間たる所以であるとさえ思う。


だから、北東北には人として脱線する子供が少ない。


不動明王という大日如来の化身ともされる仏教信仰の最高仏がいる。お不動さまと呼ばれている。形相は鬼のように恐ろしいが心は慈悲深い。


ナマハゲはこれに近い。


大人は、特に父親はそうあるべきだと思った事がある。父親が怖くても、母親が慈悲深ければ、夫婦で不動明王に近づける。


そうした日本の知恵や慣習が、行き過ぎた個人主義や、男女平等・差別だの、身勝手なお金主義の横行で分断までされてしまった。


民俗文化を西洋の「流行」に合わせる必要などない。振り回された挙句、民俗文化そのものを破壊させてしまう。


必要以上に極端になる事はないが、大人も畏怖の心を忘れてはならない。だから、奇祭も失わしてはいけない。


仏像やお面などの「像」を偶像崇拝だと揶揄する方もいるかも知れない。しかし、もし像という「姿」が無ければ、我々は神や仏をどのように知覚するのだろうか?


そして、年齢を重ねて思い至るのだが、神社やお寺で祈りを捧げている「相手」は、本当は仏像や神器に対してでは無いことが分かってくる。


祈りは間違えなく、自分自身、もう少し言えば、自分の中に生きづく「生命」に対してである。


それを仏像や神器などの「姿」を経由してフィードバックしている。


生命は、周囲の様々な人や物に支えられて、さらには日本の大地にも支えられて存在している。地球にも太陽にも、宇宙全体にも支えられている。


その事に、真摯に感謝を伝える「儀式」が、神社やお寺の「祈り」なのだと思うようになった。


だからこそ、自身の心の中にナマハゲや不動明王が居なくてはいけない。


そうした事を古の先人達は我々に語っているように思っている。


それを忘れないように「奇祭」は残っている。


先人達の知恵の深さに愛や感謝を感じることができれば、自分自身の中にある、先祖から受け継いだ「生命」という神や仏様から、初めて「日本人」として認められたのだと思っている。


それを無理なく自然に悟らせる。だからこそ、日本という国は「凄い」とつくづく思える。