大人達の責任
責任という言葉には、社会的に自由な選択や行為が認められている世界で発生する概念という意味がある。
自由が保証されているからこそ、果たさなければならない義務や責務が生じる。
ところが、自由だけを享受して、責務を放棄した人もいる。大人であれば、これは社会のクズとも言える。
ただ、好きでそのような状態になったわけでは無い人も多い。社会システムの歪さが、無責任を増加させてしまう事もある。
もっとも、会社では、若い責任感の強い人には仕事が山のように襲いかかり、しまいには病気になるが、無責任になれる人ほど健康で出世する場合もある。何とも世の無常さを感じる。
責任には、自己で完結させるものと、他者になすり付けるものとがある。
状況に応じて、使い分ける必要が出るのも確かだ。
例えば、個人ではとても手に余る公共に資するような類は、どうしても「公助」がないと個人の責務が発揮できない。
その場合でも、普段から個人の自己責任を果たしていないと、自己と他者との線引きが出来なくなる。
この訓練をしていない大人がいると、社会は混乱する。何より社会の自由が十分に発揮できない。
そして誰よりも子供の世界に混乱が波及する。
個人のレベルでは、大人が自己の責任を果たす訓練を日々精進し、公のレベルでは、個人が責務を果たせるように社会の仕組みを円滑化する。
これが自由を享受できる「国家」の姿である。しかも、これが理想なのではなく、普通でなければならない。
よく、子供に教育した方がいいという意見もあるが、私は「大人」にこそ腹括りが必要なのだと思っている。
ベルトコンベアのように義務教育を「こなし」、勉強の出来不出来「だけ」で選別し、ひたすら学歴だけを求める教育では全く意味がない。
私は、極論的には「東大至上主義」が、教育そのものを破壊してしまっていると考えている。
そうではなく、日本に居住する大人として、社会での責務が果たせるかどうかの方が重要で、本来勉学の出来不出来は二の次である。
困った事に、東大卒の人に限らず、エリートと持て囃される人達に多い特徴が、間違えを謙虚に認めてすぐに修正する事が出来ない。
何故なら、当の本人達が、他者の間違えを糾弾して、散々に完膚なきまで叩きのめし君臨してきた過去があり、自分が被害者側になる事が許容できない。
この為に、大衆蔑視などの「勘違い」が起こる。上から目線でしかモノを語れなくなる。
いっそのこと、日本から「東京大学」を消してしまってはどうであろう。
これぐらいの事をしないと、大人の自己責任は取り戻せないような気がする。
これを決められる官僚の方々の母校だ。当然、自己否定に繋がるので反発するだろう。ただ、何処かでこの決断が必要になる気がしている。
投票にすら行かない。極端な暴論だけを吐いて、何一つ責務は果たさない。全てを他者の責任に押し付ける。安全な位置から罵声だけを浴びせる。
中には、自己肯定や承認欲求の為だけに他者否定をする人もいる。
こんな事ばかりが続く世の中では、不幸が続く。
歳を取ればわかるが、他者のせいにせず、他者に過度な期待もせず、全てを自分が招いた因果であると悟ると、意外にも人生が幸福になる。
誰も恨まないし、誰も排除せず、誰にも迷惑はかけない。必然とそういう人には、周囲から人が集まる。
ただ、いきなりは出来ない。自己責任は日常での訓練が必須だ。
大人が自己の責任を持っている社会だからこそ、大人が責任を持って公儀に異を唱える事ができる。子供はそういう大人達を見て育つ。
ここ数年の「動乱」で、ようやく社会の本質に覚醒した人も多い気がしている。
日本の大人達が、責任を持てる社会になるのもそう遠くない気がしている。