映画 沈黙 -サイレンス- 2016年作品 | 半兵衛のブログ

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監督   マーティン・スコセッシ

脚本       ジェイ・コックス/マーティン・スコセッシ

原作       遠藤周作 『沈黙』1966年

製作       ヴィットリオ・チェッキ・ゴーリ

制作費 $51000000(134円換算68億3400万円)

上映時間 159分

出演者    アンドリュー・ガーフィールド/イッセー尾形/窪塚洋介他

半兵衛の評価 ★★★★★ 星5つ! 深く考えさせられる作品

 

教科書では数行で語られるだけの史実をマーチン・スコセッシ監督が映画化してくれました。日本人としては、後世に残すべき重要な歴史作品です。恐らく100年後も鑑賞し続けられる作品ではないかと思います。残念なことに拷問・処刑シーンがリアル過ぎるので子供に鑑賞させるのはためらわれます。アメリカではR指定。

 

<ストーリー>

江戸幕府によるキリシタン弾圧が激しさを増していた17世紀。長崎で宣教師のフェレイラ(リーアム・ニーソン)が捕まって棄教したとの知らせを受けた彼の弟子ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライヴァー)は、キチジロー(窪塚洋介)の協力で日本に潜入する。その後彼らは、隠れキリシタンと呼ばれる人々と出会い……。 シネマトゥデイより

 
 
「彼のように偉大な作家 思想家を生んだ日本文化に対して、恥ずかしくない映画になっていることを心から願っています。」マーティン・スコセッシ(カトリック教徒)
 
遠藤周作(カトリック教徒)の「沈黙」をあのマーティン・スコセッシ監督が映画化しました。
原作はグレアム・グリーンをして「遠藤は20世紀のキリスト教文学で最も重要な作家である」と言わしめるほどの名作です。
スコセッシ監督は28年前にこの作品と出会い映画化をずっと考えていて、いよいよ映画化された渾身の作品です。
※28年の歳月がかかった理由:日本人の文化を知る時間が必要だった。
 
作品自体はキリシタンの弾圧を描いていますが、そこで描かれるのは信仰(信じることの意味)の葛藤や生きることの意味などを、弱い立場の人間を通して描かれます。
 
<見どころ>
・江戸幕府は何故禁教令をひき、どのように取り締まったのか?
・何故布教をするのか?
・日本人の宗教観との違いは?
・宣教師の心の変化
・異文化を受け入れることの難しさ
江戸時代の日本人の観点に立って見てみるのも面白いと思います。
 
鑑賞前の予備知識-------------------------------------------------------------
●江戸時代の禁教令

元和年間を基点に幕府はキリスト教徒(隠れキリシタン)の発見と棄教(強制改宗)を積極的に推進していくようになった。これは世界に類を見ないほど徹底した禁教政策であった。

幕府はかねてより治安維持のために用いられてきた五人組制度を活用したり、寺請制度を創設するなどして、社会制度からのキリスト教徒の発見及び締め出しを行った。また島原の乱の後には、元和4年(1618年)に長崎で始まった訴人報償制を全国に広げ密告を奨励した。密告の報償金は、人物によって決まり宣教師の場合には銀30枚が与えられた。報奨金は時代によって推移したが、基本的には上昇しており、最後は宣教師1人に付き銀500枚が支払われた。棄教を選択した場合には誓詞に血判させ、類族改帳によって本人は元より、その親族や子孫まで監視した。

また、隠れキリシタンの発見方法としては有名な物に踏み絵がある。そのごく初期には効果があったが、偽装棄教が広まるにつれ発見率は下がっていった。最後は正月の年中行事として形骸化し、本来の意味は失ってしまったが開国まで続けられた。

また、キリシタンにとって殉教は喜びであるということを思い知った幕府は、彼らを死刑にするのではなく、苛烈な拷問にかけて棄教させるという方針をとった。

有名な物には、棄教のために京都所司代の板倉氏が考案したとされる「俵責め」がある。身体を俵に押し込めて首だけ出させ、山積みにして鞭を打つという拷問である。俵責めに耐えられず棄教した信徒は多く、俗に棄教した信徒を「転びキリシタン」(あるいは棄教した宣教師を「転びバテレン」)と呼ぶのは、この俵責めからきているといわれる。

キリシタン弾圧で有名な長崎奉行竹中重義が考案したとされる「穴吊るし」も有名である。穴吊るしは、深さ2メートル程の穴に逆さ吊りにされる拷問である。公開されても穴から出た足しか見えず、耳やこめかみに血抜き用の穴が開けられることで簡単に死ぬことはできず、それでいて棄教の意思表示は容易にできるという非常にきつい拷問であった。寛永10年9月17日(1633年10月18日)、この拷問によって管区長代理であったクリストヴァン・フェレイラが棄教し、カトリック教会に大きな衝撃を与えた。同じく拷問を受けた中浦ジュリアンは殉教している。

基本的に幕府の政策は棄教させることにあり、捕らえて即処刑ということは少なかったばかりか、1708年に密入国してきたシドッチに対しては新井白石の取り成しもあって軟禁に留めている(晩年は地下牢への拘禁)。

こういった幕府の対策により、死刑にされる者より、拷問で死亡したり、棄教したりする者の方が圧倒的に多かった。

江戸時代を通してキリスト教徒の発見・強制改宗は続けられたが、一方で隠れキリシタンもまた信仰を隠し通したり、偽装棄教によって、幕末に至るまで独自の信仰を貫いた。
ウィキペディアより。
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ネタバレを含む感想(鑑賞後読んでね!)
 
1971年篠田正浩監督の映画『沈黙 SILENCE』が最初の映画化となっていますので、同小説から同じタイトルの2作目となりますが、マーチン・スコセッシ監督が前作を鑑賞したかは不明。
 
アメリカ映画にありがちな間違った日本観は皆無で、安心して鑑賞出来ますが、例によってポルトガル人が英語を喋ったり、やけに英語を話せる村民が多かったりはお約束です。
 
最近涙もろい私は映画館で何度も涙を流してしまいました。
モキチの最後とか・・・
 
鑑賞後にまず思ったことは、キリスト教は「貧しい人が天国に行ける」と説いていましたので、村民達は厳しい年貢の取り立てなどにより、それにすがるしかなかったのでしょう。しかし、キリスト教に出会わなければ、貧しいながらも迫害を受けること無く人生を終わることが出来たのではないか?村民たちは「教えを守り死ぬことで天国に行ける」と信じていました。宗教とは生きることを教えるものでは無いのか?救いとは一体何か?という疑問にぶち当たりました。
 
最終的に宣教師はキリスト教徒の無駄死にを避けるために棄教を選択して、ためらわずに踏み絵をするようになりましたが、本心ではキリスト教徒としての信念を最後まで持ち続けました。私はこれはこれで良いと思ったのですが、カトリックのお偉いさん達は全く違う考えを持っているようで、次のようなコメントを残しています。
 
『イエズスが「正義のためにしいたげられる人は幸せ」という自分の信念を捨てて、ただこの弱い哀れな人々の今の幸せを考えたならば、遠藤氏のいうようなことになっただろう。(中略)日々、人間として信仰者として、我々は、いろいろな意味での踏み絵の前に立たされている。キリストと、キリストの国と、キリストの愛を選ぶか、それとも、あなた自身の傲慢と、利益と邪欲とのいずえを選ぶかが、日々ためされている。 この場合、弱い人間として選びやすい方を選んでもよいなら、そしてどうせキリストは弱い者のために来たのだから、それをあてにして行動するならキリストが、”天にまします父のように完全であれ”という言葉も空しくなる。こうなれば、キリストは、「人類が歩くべき気高い道の旗印」とはならず、「人間の弱さ、卑劣さの使徒となり、人間の中にある最も聖なるもの崇高なものの最大の裏切者」となるほかない。キリストが「人類の気高いものの旗印」となったのは、彼が生命をかけて正義と愛と真理を守り通したからである』 ウィキペディアより

 

ということで、殉教者の死は当然で「生きるより死を選べ」のように取れる発言をしています。

 

次に思ったのは、今の時代なら自由に宗教を選べます。

キリスト教を信仰する時代を間違ってしまったという感想ですが、逆に、あのような時代だからこそ文字通り命がけの強い信仰を持つことが出来たのでは無いかと思いました。

今のような満たされた時代での信仰は何故かファッション的な軽いものに感じてしまいます。お金持ちが平気で「私はキリスト教徒」という時代です。※イエス様はお金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るより難しいと発言し、富めるものは貧しいものに全て分け与えよと発言しています。

 

次に思ったのは、そもそもキリスト教はキリストがつくった団体ではありません。キリストの教えを教団化したもので、弟子が勝手に作った団体です。ジョン・レノンの発言では「人々はメッセージを見ようとせず、メッセンジャーをみてしまう」という発言にあるように、キリストよりも弟子や弟子の発言や考え方を見てしまい本当のメッセージは歪められていないのであろうか?という疑問です。

私はイエス様なら、「踏み絵に対し絵には何の意味もない、大切なのは信仰そのものである、無駄に死ぬこと無く生きてメッセージを伝えよ」と、言うような気がしてなりません。

 

●信仰とは何か?

葛藤により、信仰を貫くのか人々を救うのか?宣教師自身の信仰という針が大きく右に行ったり左に行ったり振れ続けます。

 

神に答えを求めますが神は決して直接言葉を投げかけてきません。

そもそも信仰とは見えないもの、決して返事が返ってこない事を信じて行うことです。

この作品のタイトル「沈黙」とは信仰そのものを指すのだと思います。

 

「沈黙の中に答えがある 答えは誰かが差し出すものではなく自分で見つけるもの 神様に期待するのではなく自分でやるしかない」 マーティン・スコセッシ

 

●日本人の宗教観

答えを出さない神とは裏腹に、この作品中での棄教した宣教師が「この国では毎日登る太陽を崇拝する」と発言しました。つまり、毎日神様を見ているという事なのです。陽の光によって植物が育ち生活の糧を得ています。日本人の宗教観は仏教伝来前から常に自然と共にあります。つまり沈黙する神より、毎日一緒に過ごす大自然なのです。

「神はすべての物に宿る」と信じられており、外国で生まれた神を唯一の神だと思っていない事や仏教が当時の日本人に根付いている様子が、浅野忠信演じる通訳の発言から読み取れます。

通訳「あなた方はブッダは人間だという・・ただの人だと・・・」

宣教師「ブッダは死ぬ 我々と同じだ創造主ではない・・あまりにも無知だ・・」

通訳「パードレ そう考えるのは キリスト教徒だけ 仏は人が到達できる存在だ」

 

 

●キチジロー(窪塚洋介)
キチジローは裏切り者ユダとダブります。
何度も懺悔をしますが何度も裏切ります。終いには宣教師もいやいや懺悔を聞くようになり、

見ているものは彼を何度も裏切る滑稽な人間に思えるかも知れません。

生への執着が強いキチジローは信仰を守りたいが、家族を処刑され、拷問を恐れ、帰る場所もない実に弱い立場の人間です。私も含めてキチジローの行動こそが多くの人々のとり得る普通の姿なのだと思いました。

作者の遠藤周作は「キチジローは私だ」と述べています。

 

「キチジローは卑劣な人間 汚いし信用できない だからと言って私達のほうがより良い人間といえるのか キチジローは自分の中にある悪い部分に気付かされてくれる キチジローは本当に変わりたいと思い努力を続ければ変わることができるという希望を伝える存在」 マーティン・スコセッシ

 

●江戸幕府の対応

取り締まる幕府の長崎奉行井上筑後守(イッセー尾形)は血も涙もない人間のように描かれていますが、彼は法律を守る番人であると同時に日本の社会を外から守る使命を持ち、強い信念と知性を兼ね備えており、自身もクリスチャンでした。棄教さえすれば、何もしないし、何度もその機会を与えました。「お前の栄光の代償は 彼らの苦しみだ」と宣教師に迫ります。

 

4人の側室の例えや、「沼に木を植えるようなもの」等の発言に彼の知性が現れています。

 

今の時代でも、法律を守れない人間には冷たい視線が向けられます。

覚醒剤をやった清原やアスカなども、犯罪者呼ばわりされます。しかし、法律は時代によって変わるものです。今の時代姥捨て山があったら大変なことになります。カリフォルニア州ではマリファナは合法です。戦争で人を殺しても殺人罪にはなりません。何が正しくて何が悪いのかは時代によって変わります。

 

当時はキリスト教は禁教令が敷かれていますので、単純に考えればクリスチャンは法律を守れない犯罪者です。確信犯という言葉がありますが、間違った使い方がされています。

確信犯とは、自分が悪いことをしているとわかっていてそれを行うこと・・・という勘違いをして使われることが多いですが、自分のしていることが正しいと確信して、法律で禁止されていることを行うことですので、クリスチャンは確信犯だったのです。

 

●キリスト教の持つ植民地思想、

植民地支配しようとする国の尖兵としてまずはキリスト教の布教という手順があり、幕府はそれを知っていた。島原の乱などを口実に更に厳しく取り締まった。

 

●監督なら踏み絵を踏みますか?

「私にも当時の日本のキリシタンが持っていた強さがあるかわからない・・あんなに強くなれるか・・」 マーティン・スコセッシ

 

●演技

イッセー尾形の演技がスゴイ!

彼は自分の思う役の似顔絵を書きそれに近づけ話し方を変えていくそうです。

ロサンゼルス映画批評家協会賞 助演男優賞の次点入賞をしました。

 

通訳役の浅野忠信は当初渡辺謙に決まっていましたがスケジュールの都合によりキャンセルされました。彼はキチジロー役のオーディションで不合格になっていたそうです。

 

●最後に

信仰を貫いて死んだモキチと裏切りながらも生きながらえるキチジロー

何が間違っていて何が正しいのか?答えは一つではありませんが、この作品は深いテーマを問題提議をしていると思います。

 

私自身は信仰は自由だと思いますが、歪められた教えに対しては甚だ疑問に感じます。良く宗教者が「哲学者の行き着く先は自殺しか無い」といいますが、この作品を見る限り「盲信による無駄死に」に見えてしまいます。

 

又、異文化を受け入れるという、現代社会に対する警鐘を鳴らす作品でもあります。

何度も書きますが、自分のところだけが正しいという宗教の思い上がりが戦争を生み続けるのです。本来宗教は世界を平和にする力でなければなりませんが、地球上で無くならない戦争の最大の原因になっています。