まったく知らない世界だけど、思いついたことを、とりあえずメモ。

池内恵」「中田考」「大田俊寛」をちょっと変な視点で

ISに対する見解として、池内恵(サトシ)氏と中田考氏には明確な開きがある。原因は、理解や認識の差よりも、立ち位置の差がもっとも大きいと感じる。

池内氏を御用学者と批判する人もいるが、たしかに政治判断まで踏み込んだ発言は、研究者として不見識を問われても仕方ない。実際に、研究者としての評価は、認知度とギャップがあるようにも感じる。ただ、批判というよりも中傷じゃね?って感じなので、お気の毒なことだ。

一方、中田氏はイスラム法学者、イスラム教徒として発言をしており、その意味において、この人と伍して議論できる日本人はいないだろうし、たぶん意味を為さないだろう。むしろ、共感によって、取り込まれる可能性すらある。

この二者のすれ違いは、オウムやグノーシス主義の研究をした宗教学者の大田俊寛氏の言を借りて次のように説明できる。
宗教の本質規定の方法は、個々人の心理的次元に着目するものと、社会的機能に着目するものの二つに大別されます (引用:オウム事件から「何も学ばなかった」日本の学者たち
大田氏と池内氏は社会的機能を自身の所属するコミュニティを基本とした考察をする立場をとっている。中田氏の場合は、同化しているので、自身がそのまま研究対象とすらいえる。

視点を変えて、研究者自身を見てみる。

池内氏と大田氏は、同世代(73、74年)であり、共に上の世代に批判を加えることで、宗教学のタコツボから外へ足を伸ばしている。「文化人」にならずに、タコツボに身を詰めながらの、勇気ある行動は、それだけでスゴイとおもう。また、どちらも東大で宗教学を修めており、批判の対象者も東大出身だ。単純に東大スゲーという話なのか、特有の学風があるのかわからないが、学者の狭い世界では、表に出ないことが多そうだ。

以前、日本仏教某宗派の人から色々と話を聞いて感じたのは、信心を持つということは、言語を介した理解ではないので、政治と宗教はそもそも属する次元が異なり、政教分離なんていうのは、外部からの無意味な分類にしか過ぎないということ。信教の少ない日本では、どうも教義の理論から解釈される傾向を感じるけど、目的や主体の規定がなければ、言葉遊びにしか過ぎない。

こーゆー時こそ、本当は専門家の出番だとおもうけど、また、こーゆー時に、もっとも動かないのも専門家でもある、悩ましいところだ。若い人は研究に精一杯だし、とりあえず、第三者的な安全地帯からは出そうにない。んー、学者的分析と実際的行動は両立できないものだろうか、この問題はまた繰り返されそうな気がする。

追記1/28:池内氏の専門は、イスラム「政治」思想なんだな。一連の発言も理解できる。ただ、誘導っぽい論調が、専門家というより、政治家や評論家チックで気になるんだよなあ。