不確かな情報をもとに、意見を固定するのは良くないけど、時系列で、その判断や変化を追うことは意味があるかもしれない。

Islamic State という組織に対して、「イスラム国」という呼称は使用しない。名は体をつくる。新井克弥氏はメディア論の立場から意見を述べているけど、大事なことだとおもう。

ネットでは「自己責任」という言葉が湧いているけど、単純な図式化が怖い。政治判断として、決断は必要になるけど、人間として、素直にモヤモヤをそのまま抱えるって大切なことだとおもう。ネットは言論空間なので、モヤモヤはどうしても、居場所がなくなってしまう。

論理から考えるならば、国家は邦人の安全確保に最善を尽くすというが存在条件なので、自己責任という理屈で切り捨てるなんてことはありえない。ISが日本国に対して敵対行動を表明した意味から、読み解かなければ、大きな禍根を残すことになる。見えることと見えないこと、これを理解しようと努めることが大事。

中田考氏が交渉役を申し出たけど、まず選択肢としてはありえないだろう。氏の日本の支援は偏っている、という指摘はたぶん合っているだろう。日米同盟を基本とした支援ということを、改めて認識させられたのは、偽善を暴かれているようで、言葉につまる。しかし、イスラム法学者として、親ISなのは明らかであり、オウムと中沢新一氏の関係を連想させる。東大の宗教学って、深く「潜る」ひとが多い印象があるけど、どうなんだろう。

イスラム教というのは、純粋に守ろうとしたら、現在の欧米主導型文明とは、両立できないんじゃないだろうか。政教不可分だったり、人権の考え方も違うっぽいし、イスラム原理主義のISは、光が生み出した影として考えると、これはかなり複雑な問題だといえる。

キリスト教は、現実に合わせて変化させているので、教義的整合は知らないけど、欧米主導の宗教だなあとおもう。ローマ法王ってなんなんだろう。

日本仏教は、葬式仏教って揶揄されるけど、その生臭ぶりも、また、日本の良さかもしれない。