こないだ、気づいたことの一つに、
大きなひとつではあったんだけど、
「わたしは、一生罰せられ続けなければならない」 っていう、
言ってみれば強烈な罪悪感だよね、
それを、見つけてしまった。
見つけたこと自体は、いいことなんだけど、
だから、何?って思うところもある。
確かに、
「あ、今の態度は、この信念が基盤にあるな」
って、気づけるようになったのは、ありがたいこと。
そのつど、新しい選択をする機会を、与えてくれるから。
けれど、それって地道すぎて、
もっと、ぼーん!と、前に進みたいよ!って、
たまに、ひかえめに言うとたまに、
思ったりもする。
でも、時間も必要なんだろうな、とも思う。
一気にしようとしたら、それこそ、
私が耐えられないんだろうな、とも思う。
たぶん、これも、
新しい理解を待つことになるのかもしれない。
ふと、今、感じたことは、
結局、どれだけ罪悪感を背負ってみたところで、
どれだけ、罰せられる人生を実現させたところで、
究極的に自分が望んでいる出来事、
つまりは、世界の平和や、幸せの実現に対して、
まったく、なんの貢献もできたことにはならない、
ということを、本当に知る必要があるんだね。
自分から、歴史を変えるんだ。
ひとりひとりの内側で起こっていることが、
ほんとうに、全体に波及していく。
だから、わたしをゆるすことから、
しあわせに、いきることを、ゆるすことから、
始めていけばいい。
しあわせなんて、ゆるさないと、
きつく、言い放つ声があったら、
わたしは、こう言おうっと。
神様でさえ、全ての人を許しているのなら、
どうして、わたしが、しがみつく必要があるだろうか。
憎しみと、怒りとに。
それは、わたし自身のエゴに、ほかならない。
命は、生かすために与えられたもの。
精神を絞り殺すために、与えられたわけじゃない。
そこの責任は、自分にある。
わたしのいのちは、わたしのものであって、
そして、全体のもの。
わたしをゆるさないことを決める権利など、
ほんとうは、わたしには、ないのだから。
生きるか死ぬか、やるかやられるか、
そういう繰り返しのなかから、
ひとつの理解が生まれたら、
もう、そういう問い自体が、なくなっていくはずなんだ。
そのときに見える景色を見てみたいし、
その景色を維持したままで、生きていけたらなって思う。
つまりは、こちらの精神性の問題なんだけど。
あ、もーあたまボーっとしてきた!
おしまい!!
☆☆☆