今日は、ブログを始めたことについて書こうと思う。
僕はブログを開設する前にmixiをしていた(今でもログインはしばしばしている。ただ、ブログにアップするみたいに頻繁じゃない)。始めたのは大学の同級生に誘われたからで、けれど最初はあまり乗り気じゃなかった。登録を決めたのは半年は過ぎていた卒業するときで、たぶん大学で専攻していた傾倒具合をまだまだ継続させていたかったんだと思う(専攻は日文、書くことや読むことをどうしようもなく信仰しているところがあった)(今もそれは続いている)。当時持っていたケータイが古くて(あと2-3年もすれば使用停止させられる、バーコードリーダーのない代物だった)、紹介メールを送ってもらっても登録ができなくて断念したけれど、しばらくしてケータイを新しくしたときに紹介なしでも登録できると知って、登録をした。それから、自分のペースで日記更新やコミニティ登録をしていたけれど、ふと、2-3ヶ月くらい経ったときに、気付いた。これは「正しい」と言える形態なのだろうか、って。
mixiもAmebaも似たような機能はあって、たとえばAmebaのブログはmixiなら日記だろうし、グルっぽはコミニティだし、Twitter機能もある(気付いた当時は、Amebaなんて個別のものを想定していなくて、ただブログとの違いに引っかかりがあっただけなのだけれど)。ネット上の手段はさまざまに重なり合ってそれぞれのサイトが構成されているし、それでこそ競争と発展による良質を享受できるのだから、機能の違いについてはあまり明るくない僕が多くを語ることじゃない。
逸れた話を元に戻して、僕が気にかかったのが何かと言えば、mixiが「閉じた」媒体だったことだった。「正しい」という先の表現は、きっと語弊を与えるだろうけれど、グローバルやボーダレスという社会の現状やインターネットの性質を考えると、登録した者しか見ることができない、という前提は、内向きで、後退するような印象がある、と、気が付いたのだ。たとえを出すなら、鎖国状態の江戸時代とか、あるいは1日家から出ない引きこもりとか(おおげさかな)。その内側に、何か素晴らしい考えや面白い見解なんかがあっても、外側からは見えにくい(自分の中にそういうものがあるのか、なんて疑問は、今は棚上げにしておく)。表現したり発現させたりすることについて恐れや不安を抱いているなんて、逃げているようだ、と、思ったら、ブログという形態が1歩外に出た状態のように見えたのだ。
だから僕はブログ開設に興味が起きて、こうやって考えを掲載するようになった。
ただ、この見解には保留した視点がある。それは僕がmixi利用当初から自分から誰かに積極的に発言なんかはおこなっていないってことだ。コメントを書いたり、メッセージを送ったりといったことを頻繁にしたら、きっと僕の書く日記やブログを読む人は増えていくのだろう(アクセス解析が興味深くてよく見ているけれど、グラフ下のアクセスアップのアドバイス1行にもそんなのがある)(それに、書く前に読め、というのが大学入って1番に言われたことだ)。できることがまだあるのにやらずに乗り換えるなんて、非難されても仕方ないだろうな、と思うし、鼻で笑った人がいるなら、それはそれで当然だと思う。
それでも、mixiの閉じている状態にはやっぱり引っかかりがあって、自分の性質との兼ね合いでもやりづらさを感じさるをえないでいる。あるいは、繋がり重視の機能、と言った方が適切かもしれない。正直に言えば、人と人の近さがどうしても僕は苦手なときがあるのだ(決して、できないという意味ではなくて、いろいろ考えてしまって不安を覚えやすくて、その自分の性質や事実にときたま参ってしまうのだ、どうしようもなく)。更新情報を知らせる機能はmixiの日記にもAmebaのブログにも似たようにある。ただ、繋がりありきのmixiでは掲載する言葉の重要度が違ってくる。1対1のやりとりで話題になった以外の部分を更新したときでも、彼らにはいやおうなく連絡がいってしまう。上手く表現できていなかった部分や発現させてこなかった意見なんかが更新のたびに相手にさらけ出されると思うと堪らなく不安を感じざるを得ない。相手の興味以外の部分を発現させて、僕が意図しない何かしらの作用を起こしていたらと考えると、話題にすることを躊躇さえしたくなってしまう。
mixiを始めた当初は、閉じていることに安心感があった。高校までの僕の言葉は、ものすごく私的なもので、思考と直結している感覚があった。大学に入ってから、教員陣の有無を言わせない「常識」のおかげで、意見を持ててさえいない自分に気付かされた。だんだんと、望む考え方を持てるようになって、それを伝えられるmixiという手段は便利に感じられた。けれど、僕の多面性すべてを知れるわけなんてなくて、マイミクを増やせばそれぞれに気を払うことがひどく負担になってくる(もちろん、勝手に心配して負担がっている幻想だろうとわかってはいるけど)。相手がいると知っていると何か書かなきゃいけない気がしてくるけど、僕がまとめ上げる言葉の数々は特段その相手に伝えなきゃいけないものでもない。その齟齬が、ひどくもどかしい。
だから僕はブログを開設したくなって、こうやって考えを掲載している。
そんなに難しく考える必要はないよ、と人は言うだろうし、僕も人に対してはそう言える。あるいは、難しく考えてみた方がおもしろいかな、と粋がってみる。
ブログという媒体が出始めたとき、日記はプライベートで人に見せられない内面を書くものなのにそれを大衆の目にさらすなんて、という意見が身近にはあって、僕は、なるほど、と思っていた。今、いろいろと掲載していて、日記とは違うな、という意識がある(mixiには、その感じを強く受けて、だからなかなか掲載ができないのかもしれない)。結局僕は、普段「喋る」というかたちでは表し切れない大量の思考を見せられる状態にして出しているにすぎない。弱い部分やシラけそうな部分はなるべく出さないで、言いたいことを言いたい調子でだだもれにしたいだけなのだ。
とても、無責任だな、と、思う。そして、ものすごく、気楽だ。ブログという手段の前提が、今の自分の選択したいものに合致している。読む人間が不特定多数であるのと同様に、書いている僕も不特定多様でかまわない。意見を固定させる必要なんてなくて、今考えうるすべてを並べてもまだまだまだまだ余白がある。もちろん、読んでくれる人がいたら嬉しいけれど、読んでください、と、切望はしなくていい。だから、書くことと読むこと、それぞれにおける責任が、それぞれの動作をする人間で完結できる。
言葉はものすごく暴力的な性質のあるもので、僕にふとした瞬間不安を与える。けれど、今ここの、僕が書いているブログ上の言葉には、そこからくる義務感なんてものはなくて(それは勝手に僕だけが感じてる暗黙でもある)、ただ明確に区分けされている責任だけがある(ここまで書いて、無責任の対義語は責任じゃなくて義務なんじゃないかな、と、思った)。不快に感じた読む人は読まないことを選択できる。その事実は僕をひどく安心させて、発現しきれないでいたさまざまを気負いなく存在させられるようになる。世の中には僕に刺激を与えるものが五萬とあるのだ。
だから僕はブログで記事掲載することが楽しいと感じている。
[さぁて、今日は何の日だ。]