50年前の学生の頃、知性に憧れていた私は、密かにボーボワールの
”第二の性”を愛読していた。
”人は女性となるのだ、作られるのだ”と解釈した。
だからどうするのかさっぱり解らなかったが、言葉に魅了された。
とにかく周りの空気に迎合してはいけないという意識はどこかに残った。
今となっては、何を自分は大事にしていたのか解らない。消えてしまった。
言葉を表面的に受け止めただけだったろう。
にも拘らず多分この意識は、私をある時期まで動かしてきたと思う。
しかし意識はそのままとどまっては形が崩れてしまう。
ある意識は、その人の自由な発想をブロックする。
知性が、あるいは知識がその人の身体に行きわたり具体的に動いてこそ
生き生きとしてくる。
自分の体が生き生きと伝えていることを聞けるようなりたい。
時には、その場の流れに身を任せる必要もあると思う。
水の流れのように。