もっのすごい久々のブログです、若干、緊張すらしていますw ずっとtwitterを見ていて書きたい事があって、150文字以内に分けて書いていたものの、やはり書ききれない。こりゃブログだな、と、久々にログインしたわけです。当然、パスワードを忘れてログインに一度、失敗しました(笑)


最近のツイッター界隈を見ていると、もはや著名人が自分で自分の名前や、関わっている作品名を検索して、否定的な意見にリプライを飛ばすのは常識となっているのでしょうか?私もtwitterは「つぶやく場所」だとは言えど、ネットという媒体を使っている以上、ただの独り言にはなりえないのは理解している。うむ。そりゃ犯罪に関わるような事を言ってはいけないし、@をつけて発言するのなら、それは人と会話するのと同じ礼儀を払うべきだと思う。ただそれ以外の事をただつぶやいている人たちは、私から見ると、噂している本人の目には触れない、それこそ街角の井戸端会議に極めて似たものに見えてしまう。


はっきり言って街角は残酷だ。その人やその物を好きな人はごく僅かで、ほとんどが興味がない人たちと、若干の嫌いな人たち。愛がなければ辛辣だし、知ろうとする熱も持たないから軽薄。額面通りの心象だけを受け取って、ギャーギャー言い合う。そんな程度だと思う。

であれば、ヒール役が嫌われれば嫌われるだけ、それはその人の「芸」が成立した、という事だろうし、作品が叩かれた量だけ、注目され、「見られた」証拠だと思ってしまうのは間違いなのか。twitterをやっている人は世の中の割合で見るとごく一部ならば、実際はもっと多くの罵詈雑言が舞っているとすら思うのだ。


しかし実際、当人からして見れば、傷つくのは必然だよな・・・と(笑)自分の意に反した事を整然と語っているのを見れば、訂正したくなるのが当然。ならば、本人に「検索すな!」とは勿論、言えないし、そんな権利も持っていないし(笑)つぶやいている自分の街角を守るために、「検索よけ」や「鍵」をつけて、当人へのほんの少しの労り、または見つからない術を得ることも今の状況では必要なのかもしれない、と、性格悪く思ってしまった。


バカな人間が痛い目を見ればいいのは当然だが、残念ながら世の中はバカに消費されるためにあるからねぇ、とか有吉先生の名言を思い出しながら考える真夏の夜w 私も例え愛があっても嫌いな作品を好きとは言えないし、嫌いなものは嫌いと言いたい。事実すら言えないのもおかしいが、気づかいがないのもおかしい?良くも悪くも、twitterを通して距離感が縮まっているのを認識しないといけないのだろう。時代は進む、ついていかんと(´ー`)y─┛~~