震災から1年半が過ぎ、

東北のことが気にはなっているけれども

段々と離れてしまった感があり

陸前高田に3カ月手伝いにいった

友人の小林氏から話を聞かせて頂いた。


私のメモなので、理解不足の部分があることを

ご了承ください。


(小林氏にメモ掲載の承諾は得ています。)


小林益久氏 講演会 メモ


細くても長い支援が必要。

「目的をもった募金」「一本松グッズなどの支援品の購入」など。


 富士銀行のトレーダー、海外留学、外資系証券でのアナリストを経験したのち、今はこれからの日本のふたつの問題に取り組んでみたいと考えている。1つは高齢化、もう1つは少子化。このふたつの黒船は、地方に一番にやってきた。時代の変わり目は周辺から変化や希望が出てくると思い、縁もゆかりもない地方自治体に身をおいている。


 昨年、陸前高田に行政マンとして手伝いにいった。市の職員の3分の1の命がなくなり、また、残りの3分の2の職員も近親者が命を落とす状況の中で、精神的に参っていた。行政組織が機能不全に陥っていることにより、復旧の進み方が他の地域よりも遅れた。


 東北でなくなった消防士の人は260名。そのうち、陸前高田では51名の人がなくなっている。助けに戻ることで、命を落とした人が多い。市の職員同様に復旧・復興の人材がいなくなった。


 盛岡市の職員が自ら手をあげ、被災地に派遣され努力をしていたが、自らの力のなさに悲嘆して自らの命を絶った。とても悲しいことだが、遅々として進まない状況に打ちひしがれるような状態。陸前高田の悲惨な状況をみるにつけ、逆に、私には大きなことが出来ないし、変える力はないという前提で物事に取り組むことにした。


 陸前高田の一本松を保存しようという声があがったが、そのためには1億5000万円の費用がかかるが、3000万円程度しか集まっていない。震災から1年半が経って、人々の注目が薄れてきている。


 瓦礫処理は2割しか進んでいない。神戸と同じ、瓦礫の量という計算もある。あの時と違うのは、神戸には埋め立て地があったこと。また、神戸は道路網がしっかりしていたが、東北は海辺で道がないところが多いこと。


 500億円で防潮堤をつくることになったが、市民には評判がわるい。理由は15メートルの津波を経験したのに、12メートルしかないこと。また、大切な景観が失われることだった。市民の声が反映されず、上からの計画が下りてきた感じをうけた。


 陸前高田の被害が大きくなったのは防潮堤があるという安心感から避難した人が少なかったこと、また、避難計画にそって行動した人でさえも想定外の大きさで命を失っている。ある町村では今回の津波を想定内として計画していたところがあり、人命の多くが助かった。きちんとした避難計画と逃げ道を作ることの方がよいと思われる。


 行政の公平平等の考えが邪魔をする。100人の被災者がいた場合、99の品物があっても、残り1足りなければ配らないということがおこる。このことが大きな市民の不満となっている。たとえば、車椅子を3台寄付されたが、それをどのように配布するかが決定できず、車いすは使われない。


 親を失った子供に支援をしたいと考えても、個人情報だからという理由で動くことができない。足なが育英基金は独自で調査し、名簿をつくり動いた。


 震災の年に七夕祭りを開催することが危ぶまれたが、市民が力をあわせて復興させた。復興への市民の人のきっかけとなった。また、七夕祭りとは別に全国の支援自治体との触れ合い祭りを開催した。お金も人も出せないと陸前高田の役所からといわれる中、苦労をしたが、開催することでほとんどの陸前高田の市民の人が参加して笑顔があふれる会となった。


 立教大学は15人ずつ毎週学生ボランティアをおくってきた。それは陸前高田と研修で20年来の交流があったことがきっかけだが、素晴らしい取り組みだったと思う。また、志望者が多く、書類選考までしたとのこと。もっと、多くの人に立教大学のことを知ってほしい。


 専門家のボランティアが必要。東急不動産では重機を使える人をボランティアで出してくれた。手作業と重機では明らかにちがう。


 陸前高田からの情報発信。ブログの立ち上げ。

http://d.hatena.ne.jp/seinen-shichokai/


 民間時代のネットワークが生きて、官民をつなぐことが出来た。民間で過ごしたこと、行政の中で2年間働いてきた経験により、官民を結びつけることができた。


 お金が集まっているが、それを実際にどのように振り分けて良いかがわからず、浮いているものがおおくある。行政だけでなく、民間も悩んでいる。