日本語としてのコミュニケーションとは | The life is time killing till I die.

日本語としてのコミュニケーションとは

もう昨日からずっとコミュニケーションについて考えている。

というかやっぱりコミュニケーションという単語は卑怯としか思えない。


コミュニケーション 【communication】

社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる。「―をもつ」「―の欠如」

動物どうしの間で行われる、身振りや音声などによる情報伝達。



広告はコミュニケーションだと言われているけど、ちょっとよくわからない。

一方的に企業の意図するままに、大衆と一括りにされた人間に向かってCMをブチかますのはコミュニケーションなのか?

コミュニケーションとは相互理解のためにあるものではないのか?


例えば、街中で消費者金融A社のティッシュを貰ったとする。

それはA社にとって広告活動で、貰うほうもそれなりに納得しているわけだ。

そこで、例えば家に帰って妻に「今日A社のティッシュを貰ったんだ」とでも言ったらA社の思惑は更に拡がる。

そして妻の記憶に刷り込まれる。


別に妻はティッシュもA社の情報も欲していないにも関わらず。

さっき調べたとおり、「社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと」がコミュニケーションなんよ。

これだと、全然「人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合う」感じがしない。

特に伝達し合うってあたりが。


因みに、「広告」と調べてみよう。


こう-こく 広告


[名](スル)

広く世間一般に告げ知らせること。

商業上の目的で、商品やサービス、事業などの情報を積極的に世間に広く宣伝すること。また、そのための文書や放送など。「―を載せる」「新製品を―する」「募集―」



僕がざっと見る限り、これは一方的であるということを否定しない文章のような気がする。


しかし、人は広告とはコミュニケーションだと言う。

確かに、人の思考を読んでソコに訴えかけるわけだから、一方的の中にも相互理解の要素が含まれていないわけでもない。


インタラクティブな関係。

単なるオシャベリも、メールも、コミュニケーション。

こうやってブログを書くのもコミュニケーション。

Yahooでニュースを見るのもコミュニケーション。

一緒に野球やサッカーをするだけでも、見るだけでも、コミュニケーション。

雑誌読んでるだけでコミュニケーション。

辺りをちょっと見回すだけで、相当数のコミュニケーションになる。


看板。

CM。

検索。

折込チラシ。

DM。

靴や服についてるロゴマークなんかもコミュニケーションだ。


極端な話、僕は右腕に大きな火傷の跡があるけれど、夏Tシャツなんかで歩いてて火傷が露出していることですらコミュニケーションと言い換えることができる。

鼻をかくクセも、目をこするのも、髪の毛いじくるのも、単独でなければ一つ一つの事柄全てがコミュニケーションなんじゃないのか?


拡大解釈も甚だしい。


一円玉に「1」とかいてあることだってコミュニケーションだ。

「これは1円ですよ」ってことを伝えているんだから。


単独で居ても、外部から伝達されることは全てコミュニケーション。

音、色、臭い、感触、味、温度や湿度、動作、大きさ、力、これら(もっとあると思うけど)全てが無意識的にコミュニケーションとなっているだろう。


だから、コミュニケーションという言葉は便利だなぁと、卑怯だなぁと、そう思うわけっすよ。

そんなこと言ったら広告はコミュニケーションなんて当たり前。

だって自分を取り巻く環境全てがコミュニケーションの上に成り立っているんだから。


まぁそこで重要になってくるのは「意思の介在」ってことだよね。