
(2010年(平成22年)8月19日(木):毎日新聞(朝刊))
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フランスの作家スタンダールは19世紀初め、
イタリア・フィレンツェの聖堂で絵を見上げるうちに
突然めまいに襲われ、失神したようになった。
同様の症状を訴える観光客が相次ぎ、
スタンダール・シンドロームなる言葉が生まれた。
1990年代にはイタリアで同名の映画も作られた。
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めまいの原因は不明だが、美術品を見上げていると
首の血管が圧迫されるからだという説明では身もふたもない。
個人的には、芸術に人の魂が吸い寄せられ忘我の状態に入る
という説に乗りたい。
東京都新宿区の平和祈念展示資料館を訪ねて、
この症候群を思い出した。
抑留や引き揚げ関連の展示品を眺めていると戦時の日本へ
吸い込まれそうになる。この場合は芸術的高揚ではなく、
過去と現代の落差に対する「めまい」だ。
戦争で負傷した水木しげるさんの絵もある。
資料館では89歳の斎藤邦雄さんが自作の紙芝居で戦争体験を
話していた。
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斎藤さんは抑留関係の著書が多い。
1941年、東京宝塚劇場にいた斎藤さんは、軍歌ではなく
「すみれの花咲く頃」の歌声に送られて出征した。
戦後はシベリアに3年近く抑留され、重労働と飢えに苦しんだ。
「食べ物がないと人間みっともなくなる。だから乏しい食料を
分け合った戦友は忘れません。数は年々少なくなりますが」。
斎藤さんの言葉は重い。
抑留者が懸命に生きたから今日の日本があることを覚えておこう。
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資料館を管幣する独立行政法人は程なく廃止されるが、展示は続く。
独法改廃は時代の流れとはいえ、
戦争を振り返る時の「めまい」は変わらず後世に残したい。
21世紀の世界。民族や宗教、地域の紛争はまだ続いている。
いつでも、最大の被害者は小さな子どもたちだ。
日本の平和を「当たり前」のことだと、あなたには思ってほしくない。
(ende.)
