
(2010年(平成22年)10月20日:毎日新聞(朝刊))
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ここは、東京・六本木の老舗ライブハウス「サテンドール」。
店が後押しする女性歌手が、スタンダードを歌っている。
やはり、ジャズは格好いい。
東京の盛り場には、必ずと言っていいほど、
ライブ店があり、1,000を超える歌手が存在すると思われる。
だが一般には、CDを発売していない歌手は、
うまかろうが、夢でいっぱいだろうが、
歌手とは認めてもらえないものだ。
歌手育成を行う「サテン」のような店にも出られない
若い歌手が頼るとっておきの本を横から盗み見た。
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ジャズ歌手、とりあえずのエリカとしておく。
エリカは、曲間に、トークを行う。時候の話なども交ぜるが、
大概、曲の内容をかいつまんで解説する。
これが難物である。ジャズソングは、作られた時代や社会を
反映している場合が多い。1930年代の曲など、エリカには
何について書かれているのかすら分からない。
そこで「大辞典」かつ「アンチョコ」として重宝するのが、
今年、20年がかりで完成した全20巻の「ジャズ詩大全」である。
1巻に30曲から40曲の原詞と訳詞と解釈の注意点などが
記されている。全巻でほぼ700曲。
スタンダードは、まず網羅しているので、大助かり。
実は英語の不得意なエリカは、持ち歌の訳を書き写して
楽譜に挟んでいるのだ。

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エリカの先輩・チエは、歌が生まれた社会背景を理解しないと、
本当の歌は歌えない、と考えていた。
そこで手にしたのが「アメリ力は歌う。」である。
盛り場で歌う歌手は、いくつかのジャンルを歌えなければ、
仕事が来ない。チエの専門はジャズでも、ソウルや
オールディーズも要求される。
この本は、サブタイトルに「歌に秘められた、アメリカの謎」と
あったので、自分のレパートリーを網羅できると考えたのだ。
が、この本はもっと深かった。
簡単に言うと「ラブ&ピース」で片付けられるほど、
アメリカの歌は生易しくない、と書いてある。
原初のカントリーやゴスペルの裏に潜む、暗く重いアメリカ史は、
ジャズにものしかかり、チエを歌いにくくした。
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そんな先輩たちを見ていたヒロミは、
「世に出て売れること。それがプロ」と割り切る若手。
ヒロミが読み始めたのは
「ネットとライプで自分の曲を売る方法」である。
もはやCDの時代ではない。ネットで世界を相手にしよう。
そのために、どんな知識と技術が必要か。
そのノウハウに徹したムックである。
録音、送信、著作権など、事細かに指南してある。
ヒロミは、オリジナル曲を作り、仲間とただちに録音を開始した。
誰にこびを売ることも、古きを学ぶ必要もなく、思い通りに音楽を
発信できる喜びが胸を熱くした。
東京の街の歌手たちは、明日の歌のために、今日、本を読む。
(ende.)
