
(2010年(平成22年)10月13日(水):毎日新聞(朝刊))
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「絵本から遠ざかった大人にこそ、絵本の良さを知ってもらいたい」。
元保育士の坂口慶さん(28)は「聞かせ屋。けいたろう」を名乗り、
4年前から夜の路上読み聞かせを続けている。
大人が子ども心を取り戻す一時をのぞいてみた。
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木曜日の午後9時。ほろ酔いの会社員らが行き交う
北千住駅の駅ビル前で、ギターとウクレレが鳴り始めた
「絵本の時間がはじまるよ」。
軽快なリズムに乗って、坂口さんの歌声が響く。
友人や知人ら約20人が集まった。路上には20冊の絵本が並べられ、
「懐かしい」としゃがみ込んで手を伸ばす人もいた。
帽子と眼鏡で変身した坂口さんが、1冊を手に取りくるくると回す。
両足をくっと開き、少し腰を落として読み始めた。
ギターを奏でるのは、高校時代に軽音楽部で一緒に活動した
伊藤ゆういちさん(29)だ。
お化けが出てくる絵本ではおどろおどろしく、
ちょっぴりさみしい場面ではつま弾くように。
観客を絵本の世界にいざなう。

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路上は行き交う人の話し声や足音が響き、車の音も絶えない。
面白くなければ誰も足を止めない。そんな過酷な場所に、
ミュージシャンを目指して路上で歌っていた坂口さんの
鍛えられた声が通る。
「聴かせ屋」になるまでは、紆余曲折があった。
高校時代にミュージシャンを目指し専門学校で歌を学んだが挫折。
浅草にあったテーマパークでアルバイトをして
子どもと接するうちに、保育者を目指した。
同級生より4年遅れで入学した保育短大で出会ったのが、絵本だった。
授業前、必ず読み聞かせをしてくれる先生がいた。
泣いたり笑ったりと引き込まれ、絵本は大人も楽しめると確信した。
坂口さん自身、絵本で育ってこなかったからこそ、
「新鮮な感動を覚えた」という。
絵本を忘れたり触れる機会のなかったりした大人に、
その楽しさを伝えたいと、もう一度路上に戻り読み聞かせを始めた。

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誰一人足を止めない日もあった。緊張で声が震えることも。
子どもたちが待っている昼間のイベントと違い、
見向きもされないつらさを何度も味わった。
「路上に出るときは、今でも緊張する」と坂口さん。
ギターの伴奏に合わせて「おばけなんてないさ」を手に
坂口さんや観客が歌い始めた。
少し離れた男性グループが、手拍子を送る。
作業着姿でスポーツ新聞の入ったビニル袋を提げた中年男性が
顔を小さく振り、リズムをとっている。
数冊聞いた後、ふっと笑みを浮かべ立ち去った。
約1時間楽しんだ20代の女性は
「絵本を読んだのは、記憶がないくらい前。
懐かしかった」と言い、一緒に聞いた女性は
「安心感があり、絵本の優しさが伝わった」と
満足そうな笑顔を見せた。
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坂口さんは地方公演も増えて、毎週路上に出るのは難しくなった。
12月中旬までは週1回路上に立つが、来春からは
月1回ほどのペースにする。それでも原点に立ち続けるのは
「路上の厳しい感覚を忘れたくないから」という。
(ende.)