
(2010年(平成22年)10月13日(火):毎日新聞(朝刊)より)
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メトロノームを発明した19世紀ドイツの
メルツェルという人物は機械仕掛けの見せ物でも
名を残した。
ベートーヴェンの「ウェリントンの勝利」は彼が
売り込んで管弦楽の自動演奏装置のために作られたが、
装置の出来は作曲家を怒らせた。
そこでメルツェルは他人の作った「トルコ人」という
自動チェス人形を見せ物にする。
トルコ風の人形が、箱状のゲーム盤をはさんで観客と
チェスをしてみせるのだ。
むろん観客には事前に中に人がいないことが示される。
だが、米国公演で楽屋に入り込んだ少年は、装置から
小柄な人が出てくるのを見た。一種の奇術だったのだが、
メルツェルはいかさま師とされて零落した。
「考える機械」という人々の夢を彼はショーにして
みせたのである。
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そのチェスでは今や人間の世界チャンピオンよリ
コンピューターが優勢だ。
しかしチェスよりもはるかに変化の多い将棋では
人間の優位は揺るがないと思われていた。
そんな人間の自信をぐらつかせるコンピューターの
将棋システム「あから」のプロ棋士からの1勝だ。
清水市代女流王将を破った「あから」は四つの将棋ソフトの
多数決で指し手を決めるシステムという。
ちなみに「あから」は仏教で10の224乗のことで、
将棋で可能な全局面数に近いことからの命名である。
まさに一つの宇宙ともいえる奥行きをもつ将棋の勝負だ。
「トルコ人」以降、複雑な知的ゲームで人に勝つ機械の登場は、
人類の夢だった。かといって人が機械に負けたと聞けば、
何とも複雑な思いにとらわれる。
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これからは、人と機械のどちらが勝っでも「人類の勝利」と喜ぶ
両てんびんが必要だ。
(ende.)
