
『モッツァレッラ・チーズには2種類あるんだ!』
情熱的に語られるイタリア人オーナーシェフのお話です。
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ナポリ湾の両隣、サレルノ湾とガイエータ湾を望む平地は、
じめじめした湿地で、夏には蚊が多くて、
けっしていいところとはいえない。
そのうえ、一歩道路から出ると一面に高く茂るアシや
茂みや沼地が広がったズブズブな湿地だ。
人間にとっては、どうしようもないところだ。
ところが、世の中というのはよくできている。
"捨てる神あらば拾う神あり″とはこのことか。
こんなズブズブでなきゃイヤ、という動物もいるのだ。
ブーファロ(水牛)君たちである。

このブーファロ君たちこそ、
ナポリ、ピッツァ・マルゲリータの立役者、
モッツァレッラの産みの親なのである。
モッツァレッラはブーファロの乳で作られている。
ブーファロの好むこのズブズブの土地なしには、
ピッツァ・ナポレターノは現在の評価を
勝ち得なかったとも考えられるではないか。
ナポリは、イタリアきっての湿地を持つサレルノ湾と
ガイエータ湾沿いの平地にはさまれている。
この両平野の中心となる街が、カセルタとサレルノ、
イタリアきってのモッツァレッラの産地なのである。
そしてさらに、この2地方を含むナポリ周辺一帯は、
トマトの主要産地でもある。
スターは生まれるべくして生まれてくるもの。
ナポリで生まれ育ったピッツァにトマトとモッツァレッラが
のせられたのは、けっして偶然の成せる業ではなかったのだ。

*
モッツァレッラというチーズについて説明しておく。
熟成させないチーズだから、ミルクの優しい香りがする。
そのうえ、見た目もとても愛らしい。
白くてまん丸で弾けそうなのに、触ってみると柔らかい。
新鮮さが何よりのモッツァレッラは、
表面を乾燥させないように、液体に浸けて売っている。
というと、日本の人は豆腐を想像するかもしれない。
モッツァレッラはチーズだし、細菌の働きでできるものだから、
本質的に全然違うものだけど、鮮度が命の食べる側の気持ちは
まったく同じだといえる。

最近では、日本でもモッツァレッラという名前で、
それらしきものを売っている。
だけどこの際だからはっきりいうが、
ボクはあんなものはとても受け入れられない。
例えば、外国に住んだとしよう。
いくら豆腐が好きだといったって、
いや豆腐が好きなら好きなほど、1,2週間前に作られて
パック詰めになった豆腐なんて嫌でしょう?
たとえ防腐剤なんかたっぷり入れてあって、
腐ってはいないとしても…。

料理の都合上、ボクの家内もたまに買っているようだが、
まあ、味の濃いナスのパルミッジャーナ(ナスの重ね焼き)とか、
ラザーニャに使うんだったら仕方ない、我慢しよう。
なんでも、本場ナポリのピッツェリーアでも、
ピッツァの具にするモッツァレッラは、一日おいてから使うらしい。
こうすると、締まりがなくなってピッツァのうえでトロリと
溶けてくれるようになる。
このトロリと溶けて、糸をひくところが、実はモッツァレッラの
チーズとしてもうひとつの特徴なのだ。
しかし、1,2週間では置き過ぎだし、生なんて絶対にお断りだ。
*
ボクは以前に、新鮮なモッツァレッラを欲するあまりに、
イタリアの田舎の村の小さなラッテリーア(乳製品屋)で、
1ヵ月ほど修業したことがある。
モッツァレッラはブーファロの乳の代わりに
牛の乳でも作ることができる。
このラッテリーアで使っていたのは100%牛の乳なのだが、
ボクが満足するには十分なくらい旨いモッツァレッラだし、
日本では牛の乳しか手に入らないだろうし、
修行は万事うまくいった。
手のひらは、グローブのように厚ぼったくなっていた。
モッツァレッラを作る際、仕上げの過程で、
熱湯のなかにチーズ生地を入れて、素手でちぎる。
あの可愛いコロンとした形はこんな作り方のためだ。
モッツァレッラとはイタリア語のモッツァーレ=ちぎる、
という言葉に由来しているのだ。
だけど、ボクは結局、モッツァレッラを作るのをやめた。
できるにはできたし、市販のものより美味しかった。
でも、果てしなくセンチメンタルな部分で、
ボクは日本で自分のために偽のモッツァレッラを
作って食べるイタリア人にはなりたくないと思ったのだ。
ボクは、誇り高きナポレターノなんだ。

*
モッツァレッラは牛の乳でも作ることができる。
厳密には前者を
モッツァレッラ・ディ・ブーファロ(水牛の乳)、
後者はモッツァレッラ・ディ・ムッカ(牛の乳)という。
しかしボクは、後者はフィオリ・ディ・ラッテと呼びたい。
もともとフィオリ・ディ・ラッテは、
1940年代、開墾と戦禍によって数が減ってしまった
ブーファロの乳の代わりに牛の乳で作られるようになった、
モッツァレッラの代用品だったと聞く。
ここはやっぱり区別をつけておくのが順当ではないか。
ブーファロと牛では明らかに違う生き物なのだ。
実際、10年程前では、イタリア全土でも原則として、
フィオリ・ディ・ラッテとブーファロのモッツァレッラは
区別することになっていたのだ。
フィオリ・ディ・ラッテはモッツァレッラにそっくりだ。
本物のモッツァレッラは青く見えるほど白いが、
フィオリ・ディ・ラッテは磁器のような白さだ、とか、
モッツァレッラのほうが肌目がすべすべしている、とか、
言われているが、実際に見分けるのはとてもむずかしい。
それにモッツァレッラの本場のカンパーニャ州なら、
フィオリ・ディ・ラッテだってまずいはずがない。
それなのに値段はうんと違う。
メルカート(市場)では、
ブーファロはムッカの約2倍の値段である。

*
ボクは以前から、
いつどんな理由からフィオリ・ディ・ラッテを
モッツァレッラ・ディ・ムッカなどという
紛らわしい呼び方をするようになったのかと疑間だった。
フィオリ・ディ・ラッテは「フィオリ・ディ・ラッテ」でいい。
フィオリ・ディ・ラッテだって、代用品みたいな名前より
ちゃんとしたオリジナルの名前で呼んでほしいだろうに。
「フィオリ・ディ・ラッテ=牛乳の花。」
なんともメルヘンティックな、いい名前じゃないか。
それが数か月前、古い(1984年)イタリアの料理雑誌を
読むともなくめくっていて、なかなか興味深い記事を見つけた。
フィオリ・ディ・ラッテもモッツァレッラと呼ぶように
改正されたのは、1986年からで、
それによって何かが解決するどころか、
新たな混乱を招いた、というものだった。
実は、このモッツァレッラ産業の年間収入は、
'87年当時で1,500億リレにも上ったという。
安価なフィオリ・ディ・ラッテを高価なモッツァレッラと
同じ名称で呼べるようになると、
なぜかどこかでニンマリとする人間がいるらしいのだ。
モッツァレッラは、ほとんどが南イタリアで作られている。
ところが、フィオリ・ディ・ラッテとなると、
今では北イタリアでもかなり作っている。
今までのフィオリ・ディ・ラッテの産地は、
一躍モッツァレッラの産地に格上げになるのだろうか。

*
皆さんもよくご存じのパルミジャーノチーズ。
パルミッジャーノ・レッジャーノと呼んでいいのは
北イタリアの限られた一部の地域で作られたものだけ
という厳しい決まりがある。他の地域で、同じように
牛の乳を使って同じ工程で作っても、駄目なのである。
パルミッジャーノは駄目で、モッツァレッラはよい。
しかしこれは、果てしなくバランスの悪い
おかしな話だと思いませんか。
1986年には、こんな馬鹿げた決まりを作っておきながら、
もっと大切な問題はあっさりと無視してしまった。

モッツァレッラ・ディ・ブーファロと呼ぶには
何%以上ブーファロの乳を含んでいなくてはならないか、
という問題だ。これではもうめちゃくちゃ。
ボクの目にはさっきから、ほくそ笑む誰かの顔が
チラチラ、チラチラ浮かんで、日障りでしょうがない。
牛の乳のほうが多く含まれているような代物でも、
ひどいのは粉ミルク入りの代物まで、
ブーファロの乳がちょこっと入っていれば、
みんなモッツァレッラ・ディ・ブーファロです、
と断言してよいということらしい。
実は、今日、ボクの手もとにすごい数字があるのだ。
出回っているモッツァレッラ・ディ・ブーファロから
逆算すると、イタリアには約17万頭の
ブーファロがいることになる。
ところが実際には、7万頭程度しかいないというのである。
あとの10万頭は、体じゅう黒く塗ってブーファロを装い、
生産者をだましている変装牛なのだろうか。
それとも、黒いのは生産者の誰かの腹なのだろうか。

*
ナポリ近郊のブーファロ飼育場で買ってくる
本物のモッツァレッラは、本当に素晴らしい。
ピッツァはもちろんだが、
新鮮な本物はやっぱり生で味わいたい。
レストランならアンティパストでもいいけれど、
自分の家でならばセコンドで食べる。
白くてまあるいモッツァレッラにそっとナイフをいれる。
と、皿にジワっと白いミルクが広がる。
深い味わいと、微妙な歯応え。
とはいえボクは、メルカートのサルミエン(加工食肉屋)で
買ってきたフィオリ・ディ・ラッテでも同じ食べ方をする。
感想もやっぱり同じ。
たいへん申し訳ないが、ボクにはどっちも美味しいのだ。
目の前の皿に並んだ、
双子のようなモッツァレッラとフィオリ・ディ・ラッテ。
そのテーブルを囲み、彼らをめぐって、
利害の絡んだ論議が交わされ、裏では策がめぐらされ、
カチカチと電卓がうたれる。
どこかちょっと、昔読んだおとぎ話に似ている。
顔がそっくりな王子とこじきの話だ。
生まれ育ちが違っても、
結局ふたりとも無邪気で素直な少年だった。
このまあるいご両人だって、
どう見ても無邪気で素直な顔をしているじゃないか。
周囲のつまらない思惑なんて、どこ吹く風って顔を
しているじゃないか。
そう思わないかい?
Fine.(ende.)
