ミヒャエル・ハイドンは、領主のコロレド大司教の前任者だった
大司教ジークムントを敬愛していました。
モーツァルト親子の演奏旅行にも許可を出し、不在の間の
父レオポルトの報酬も払うなど、善良な治世を行っていました。
ところが、大司教ジークムントが亡くなってしまいます。
彼が大司教の死を悼み、追悼のためのミサに作曲したのが
「レクイエム ハ短調 MH.155
(大司教ジークムントのための追悼ミサ曲)」です。
バセットホルンの低音から始まる《第1曲 入祭唱》は実に
荘厳な響きの名曲です。
しかし、何か別の作曲家のものに似ています。
それは誰でしょうか。
$Ms.Violinistのひとりごと-ミヒャエル・ハイドン レクィエム














それは「W.A.モーツァルト」です。
彼の絶筆で未完となった《レクィエム K.626》の
冒頭、第1曲「入祭唱」の印象的な動機
《D(レ)-C#(ド#)-D(レ)-E(ミ)-F(ファ)》は、
ミヒャエル・ハイドンの「レクィエム」にも表れています。
「レクィエム」の完成は、ミヒャエル・ハイドンが1771年で、
W.A.モーツァルトのそれが1791年の着手です。
これはミヒャエル・ハイドンの「レクィエム」を聴いた
W.A.モーツァルトが記憶に奥底に残っていたのを
無意識のうちに使ったか、あるいは何か別の意味合いか。
謎は深まるばかりです。

「J.ハイドン」は、ミサ曲を13曲、モテットを始めとする
単一宗教曲は160曲以上も作曲していますが、
《死者のためのミサ》である「レクィエム」は存在しません。

「カール・マリア・フォン・ウェーバー」は、
ミヒャエル・ハイドンの弟子の中で
最も優れた音楽家となりました。
W.A.モーツァルトの妻コンスタンツェの
実家であるウェーバ家の子孫にあたり、
ウェーバー本人からみて、コンスタンツェは
父方の従姉にあたります。ううむ、世間は狭い。

「アントニオ・ディアベリ」は、
やはり、ミヒャエル・ハイドンの弟子で、作曲家で後に
出版社を設立して、そちらのほうで成功しました。
出版した作曲家には、シューベルト、ベートーベン、
ツェルニー、ランナー等の名が連なっています。
作曲家としては、今日ではソナチネなどの一部のピアノ作品が
演奏される過ぎません。
ベートーベンの作曲した《ディアベリ変奏曲》のお陰で、
作曲家としての彼の名が、後世に語り継がれることでしょう。
しかし、ミヒャエル・ハイドンをとても慕っていたようで、
師が亡くなった折に、《葬送行進曲》を作曲しています。

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(Ende.大音楽家の関連
 …テレマン、バッハの時代から(最終夜) Jun 24, 2010)
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