
『暑くなると、アングーリアが無性に食べたくなる!』
情熱的に語られるイタリア人オーナーシェフのお話です。
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暑い時期には湿気があろうとなかろうと、どこにいても喉が渇く。
そんなときはアングーリア(すいか)が旨い。
以前の夏、ボクと家内は北イタリア、スロヴェニアとの境の
ゴリッツィア街から、トレンティーノ・アルトアディジェ州経由で
ヴェネト州、エミリア・ロマーニャ州、リグーリア州、
トスカーナ州と南下する、ボクらにしては大胆な北部中部
イタリアツアーを敢行した。
北イタリアとはいえ、夏はやっぱり暑い。
旅行の間じゅう、ボクの家内はアングーリアが食べたい、
といい続けていた。実はボクが禁止していたのである。
以前、スコットランドを旅行したときも、
彼女がアングーリアを食べたいといい出して、
ボクまで味もそっけもない代物を食べさせられたことがあるからだ。
いくら食べたくたって、場所を考えるべきなのだ。
ひ弱なお日様の地方のアングーリアと、全てを焼きつくすほどの
太陽に鍛えられてできるアングーリアでは違って当然。
南イタリアから来た人間を満足させるアングーリアが、
このあたりでできると思いますか。
彼女は我慢して我慢して、唯一希望の地であった
リグーリア州インペーリアでは、香しいフラゴリーネ・ディ・ボスコ
(ワイルドストロベリー)の誘惑に負け、再びアングーリアを
食べそこなった。そして旅行最後の地、ウンブリア州のスポレートで
とうとう禁断症状をきたした。明々後日はナポリなのだが、
ボクだって鬼ではないし、まあウンブリアまで来れば大丈夫だろうと、
夕食のデサートにアングーリアを注文することにした。
「メローネ(メロン)とふたつね。」
最初に言い訳させてもらうと、
ナポリではメローネ・ロッソ(赤いメロン=スイカ)という呼び名のほうが、
アングーリアよリポピュラーなのだ。
この他にイタリア語では、ココーメロという呼び方もある。
でも例えば、ボクの母に「ココーメロ買ってきて」と頼んでみよう。
きっと訳がわからず、ココッツァ(ズッカ=カボチャの方言)なんかを
ぶる下げて帰るのがおちだ。
だから、ボクが同じようなミスをナポリのレストランでしたとしても、
カメリエレ(給仕)はきっと
「ロッソ オ ジャッロ?(赤、それとも黄色?)」と
尋ねてくれていたはずなのだ。
しかし現実は、いつももっとシビアだ。スポレートはナポリではない。
結末は、ボクの予想通り。
ふくれっ面で黄色いメロンをつっつく家内は、赤くなるほど怒っていて、
彼女のほうこそアングーリアみたいだった。
赤黄メローネの共食いである。

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それはさておき、アングーリアはあれだけ大きなものだから、
やっぱり大家族向けの果物だ。
一人で、でっかいアングーリアに小さな三角形の穴をあけて、
毎日少しずつ拡張作業を進めていくのも、
それなりの楽しさはあるんだろうが、なんとなく
キリギリスになったような寂しさは否めない。
おまけにイタリアのアングーリアは、日本のスイカより大きい。
日本では半分や1/4切ってラップで包んで売っているけど、
イタリアであんな細やか配慮は期待できない。
でもその代わりといってはなんだが、ボクらには
メッロナーロ(スイカ売り)がある。道路脇でアングーリアを
小山のように積み上げて売っているテントだ。
傍らにガラスのショウケースがしつらえてあって、
なかの大きな氷の板の上には、一人分の大きさに切った
アングーリアがきれいに並べられている。
冷たくひえたアングーリアに勝る清涼剤があるだろうか。
ボクらはアングーリアに、ばしゃばしゃと食らいつく。
ちなみにこういうのを
"ラヴァーレ ラ ファッチャ コン ラングーリア"
(スイカで顔を洗う)"という。
無論、野外だから、種飛ばし競争だって心おきなく楽しめる。
まあ上品なボクは、そんな品のない遊びはしたことありませんが。
ところでボクは、かねてから、東京での果物の売り方には
ささやかな疑間を感じている。
1個のアングーリアは半分にも1/4にも切ってくれるのに、
4個パックのりんごやももを、1個や2個に分けて
売ってはくれないのだろうか。
ばら売りしているのは、たった一個で400円も500円もする果物界の
超エリートたちだけで、凡人はいつも十把一からげの扱いなのである。
こういう社会は哀しい。
凡人でも一人前に扱ってくれる、
そんな世の中であってほしいと望むのは、ボクだけではあるまい。

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果物に目がないボクらは、メッロナーロとローテーションで、
その他の新鮮な果物で作ったフルッラートフルーツ生ジュースや
マチェドーニア(フルーツカクテル)を求めて、
しばしばメルジェルリーナのジジーノ・ツォッツォーゾの
スタンドまで車を飛ばす。
実は、このジジーノ・ツォッツォーゾ、界隈でも名の知れた
男色家なのである。
だから、ツォッツォーゾ(好色家)とは呼ばれているものの、
女子はまったく心配しなくて大丈夫だ。
スタンドは毎年大きくなって、いつ行っても、元気いっぱいの
若者たちでごった返している。
ジジーノ・ツォッツォーゾも、いろんな意味でほくほくだ。
ありがたいことに、このスタンドは深夜1,2時まで開いている。
楽しみにしていた夜のテレビ映画を見終えてから、
ふらりと散歩に出たついでに立ち寄ることだって可能なのだ。
ウィンドウいっぱいに並んだマチェドーニア(フルーツカクテル)とが、
東京の夜を彩るネオンサインよりも華やかにまたたく。
四角いホイル製の使い捨てパックに、思いつく限りの新鮮な果物が
一人前ずつ分けてあって、注文すると好みに合わせてグラニュー糖や
レモン汁をかけてくれる。
季節によって当然内容は違うのだけど、例えば夏だったら、
黄桃、すもも、プルーン、いちじく、メロン、すいか、
フィーキ・ディ・インディア(サボテンの実)、ココナッツに加えて、
四季を通して入っているりんご、バナナ、オレンジ、キウイ…。
四角いパックのなかで、さまざまな色や形が重なり合って、
今にも踊りだしそうなにぎやかさだ。
一つひとつがかなり大振りにカットしてあるから、
いわゆる"マチェドーニア"の、果物のミックスした味は
しないけれど、いろいろな果物を食べたいボクらにはぴったりだ。

しかし、ボクには不満があるんだ。
東京で遭遇する、りんごだらけのマチェドーニア。
あれをどうにかしてほしいものだ。
果物をやたら細かく切って、リキュールに投入して出来上がり。
それで、高い値段をふっかけてくる。
ところが、ひと口食べると、たちまち安価なりんごの国に
迷い込んでしまうのだ。
どこを見まわしても、りんご、りんご、りんご。
とうとう桃を発見しても、すっかりりんご国の住人になりきり、
りんごの香りを吸って桃らしさを失ってしまっている。
当のりんごでさえ、たがいに切磋琢磨しすぎてぶよぶよだ。
マチェドーニアの名は、いろんな人種の集まっていた多民族国家、
マケドニア王国に由来するという。
いろんな種類の果物が交ざっているからこそなのだ。
それなら、りんごの間にちょっとばかり果物が見え隠れしている
こんなものは、マチェドーニアではなくて"東京"とか"ナポリ"にでも
改名しなくてはいけないだろう。

ジジーノ・ツォッツォーゾのスタンドでは、マチェドーニアのほか、
フルッラート(フルーツの生ジュース)も美味しい。
実のところボクは、どちらかというとマチェドーニアよリ
フルッラート党である。
東京でも、デパートの地下で生ジュースを売っているし、
味だって悪くないのだけど、なにせ融通がきかない。
いちごだの、メロンだのみんなすでに作ってあって、
お客は、そこから選ぶ権利しか与えられていないのだ。
なんかオリジナリティーに欠けると思うんだ。
例えば、「柿とバナナといちじくを牛乳で、砂糖はぬき」とか、
「いちごとオンンジとメロンを水で、砂糖は少なめ」とか、
自分の思いつくままの組み合わせのフルッラートを
試してみたいとは思いませんか。
ジジーノ・ツォッツオーゾは、こんなふうに気紛れなお客の注文で、
いろんな果物をあらゆる組み合わせでミキサーにかけているうちに、
自分の性別までミキシングして、わからなくなったのかもしれない。
男色もある種の職業病なのだ。
オリジナルのフルッラートは、何もわざわざナポリの
ジジーノ・ツォッツオーゾのスタンドまで行かなくても、
フルッラートを扱っているバールならどこでも作ってくれる。
先日、ローマのバールでフルッラートを注文したときのこと。
今日はバナナとりんごしかないという。
では、バナナとりんごを砂糖ぬきで作ってもらうことにする。
なんでもない素材だけど、暑い夏には爽やか味に仕上がった。
「イタリア人であることの歓びを感じる瞬間なんだ。」
Fine.(ende.)
