さて、"ブラームスのヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77"と
関係の深い作曲家についてお話して参りましたが、最後は、
ヴァイオリンの演奏家として、この曲の成立に深く関わった人に
ついてです。その方とは誰でしょうか?

$Ms.Violinistのひとりごと-Brahms VN_Concerto Solo Cadenza























それは、「ヨアヒム」です。

ブラームスがヴァイオリン協奏曲に本格的に着手したのは、
1878年イタリア旅行の帰りに、避暑地で有名な
ペルチャッハに滞在し、この地で構想を練り上げていきます。
同年の夏のヨアヒム宛の書簡では、ヴァイオリンで演奏可能な
パッセージについて相談しています。
ヨアヒムにブラームスからの相談に親身になって受け答えを
返したことを証明する何通かの交換書簡が残されています。
ブラームスのヴァイオリン協奏曲を研究する上で、
自筆譜に次いで貴重な資料ですね。

ブラームスは、楽譜に書き出す前の構想段階からヨアヒムに
相談を始めましたので、ヨアヒムは書簡の中で、
『スコアがないと判らないが……』と戸惑いをみせています。
しかし、それでも執拗なブラームスの返事を催促する書簡に、
ヴァイオリンのパッセージについての助言を書き送っているのです。
さらにヨアヒムはブラームスの元を訪れ、この曲についての
議論を行うほどの協力ぶりを示しています。
ヨアヒムの献身的な協力で、完成したヴァイオリン協奏曲
でしたが、ライプツィヒでの初演を前にしてブラームスは、
ためらいます。

それは、20年前に同じくライプツィヒで初演を行った
"ピアノ協奏曲第1番"が大失敗しており、
はたして聴衆の理解を得られるか、自信を無くしていたのです。
演奏会の企画はブラームスの迷いやためらいのために何度も頓挫し、
季節は秋になっていました。
ヨアヒムは、ブラームスを訪問し、やっとの思いで翌1879年の
新年の演奏会での初演にこぎ着けます。ところが、その後、
ブラームスは、一旦は完成したヴァイオリン協奏曲の中間楽章を
丸ごと破棄し、新たな楽章を作曲し直します。
このことは、ヨアヒムには知らされていませんでした。

ブラームスがリハーサルのために管弦楽用のスコアと
独奏ヴァイオリンのためのパート譜をベルリンのヨアヒムに
送った時には、年末に入っていました。
ヨアヒムは困惑し、ブラームスへの書簡で、自分に無断で
楽曲変更を進めた事と、このあと二人の間に溝を作る原因となる
《9度、10度の幅広い音程でのダブルストップ》の修正を
重ねて求めています。しかし、ブラームスは無断で
楽曲変更を行った事には謝罪をしていますが、
《9度、10度の幅広い音程でのダブルストップ》については
最後まで譲らず、2度とヨアヒムがブラームスの依頼に
応じることはありませんでした。

大きな手の持ち主だったヨアヒム。彼すらもキビシイと言わせた
《9度、10度の幅広い音程でのダブルストップ》。
私も苦しいです。ピアノの鍵盤で言うと、10度音程を押さえられる手。
「どなたか、ラフマニノフさんの手をお持ちの方、貸してください」(笑)

$Ms.Violinistのひとりごと-ヨーゼフ・ヨアヒム(写真)


























(Ende.ブラームスのヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77(最終夜))
The author is "Ms.Violinist."
The verification is "Ms.Composer."


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