日本人宇宙飛行士が先日、ロシアのバイコヌール宇宙基地から飛び立った、という。


宇宙へ飛び立つロケットは『ソユーズ』という、1960年代から基本構造がほとんど変わらないロケットだ。


日本人初の宇宙飛行士も、このソユーズで飛び立った。


その後アメリカのスペースシャトルが日本人宇宙飛行士の宇宙への足ととなるが、そのスペースシャトル計画も終焉を迎える。そして、また日本人、いや今やスペースシャトル以後しばらく、有人飛行は、この約50年前から殆ど変らぬソユーズロケットが使われるそうである。


かつてロシアはソビエト連邦という社会主義国であり、1922年から1991年のソビエトの崩壊まで存在していた。

その間に、所謂米ソ宇宙競争があり、このソユーズロケットも開発された。個人的にはソビエト解体から数年たって、モスクワのソユーズホテルというトランジットホテルに泊まったことはある。ロケットと、このホテルは全く関係なく、ソビエト崩壊から時間もなく、まさに国家が崩壊するとこうなるのか・・と,その時出された、とても食べられないような、まずい黒パンとともに、モスクワの街の暗さをじかにそこに感じたものだった。もともと「ソユーズ」とは連邦(同盟)という意味で、ソビエトが「連邦」国家であることから、命名しているようだ。


一方アメリカは、その間、アポロ計画という、月への有人飛行計画で、サターンロケットという、ソユーズとはもう比べようもない馬鹿でかいロケットを開発、人を月へ送り込んだ。あたかも力ずくで人を月に送り込んだようなものである。この計画の莫大な費用がかかるサターンロケットをアメリカも維持できるはずもなく、そのあとは何度も繰り返し使える効率の良いはずのスペースシャトル計画をアメリカは選択した。しかし、その効率も、帰還時の大事故や以外に多い修理でそれほど効率が良くないこともわかり、この計画も終わることになる。そして、これからは、有人飛行が可能なロケットは、50年も前に完成した、もはや古典的ともいわれるソユーズロケットだけになるという。


日本人でこのソユーズロケットで宇宙へ行った、野口宇宙飛行士は、このソユーズを「伝統芸術」と評していた。それほど完成度が高いのだろう。このロケット信頼性は極めて高く、極めて打ち上げの失敗がなく、また発射時の天候にも左右されにくいロケットは他にないだろうといわれる。結局アメリカもこれから当面の間、このソユーズを頼りにせざるを得ない。


アメリカの新しいものへの挑戦の姿勢は高く評価できる。また新しいもの、新しいものへと彼らは考える。それはアメリカという国が、歴史を見ればわかるが、比較的新しい国なのである。第一次世界大戦以前は、ヨーロッパより遅れた国という感があった。そのビハインドを、乗り越えるために彼らは必死に前進させた。また、キリスト教文明国としては、プロテスタントというかなり挑戦的な精神基盤の上にあるからかもしれない。

よく言われる、フロンティアスピリットがその背景にあるのだろう。そして、そのフロンティアスピリットに負けまいと日本人も頑張った。


幸い日本がアメリカとは異なり、長い歴史がある。だからフロンティアスピリットだけのアメリカとは異なるものを作ってきた。それは長い時間をかけてはぐくんできた、野口さんがいう、伝統芸術、伝統技術の精神がわれわれが気が付かない形で、生産物のなかに現れてきていたのだ。だから車でも家電でも、工業技術でその発想は生かされてきた。いまの日本人はこれを忘れてはならない。アメリカを追いかけてきた日本人は戦後かなり多い。そのアメリカも未来への希望をいかにするかさまよっている。


繰り返すが日本はその伝統的精神は心の深いところで残っている。大震災の時も、被災者の冷静な態度は、ふかいところで、この日本人の伝統精神が生きているのかもしれない。


日本人は自信を持ってよい。


このような伝統的な何ものかを手にすれば生き残れる。


50年もたち、その間、国家の崩壊も経験した、このソユーズロケットは、先にも言ったように、伝統芸術の域になっているという。


このように時間をかけて手にした技術は、またその精神は、国家が滅びようとも、時間がたとうが生きてゆくことができる。



私たち日本人は、単に新しいものを求めるだけでなく、この伝統芸術のような、忘れてしまうようなものも、もう一度身近なところから、再確認しなければならない。



(^-^)



やはり、ちょっとパスカルに触れておこう。

有名な一説


「人間は自然のうちで最も弱いひと茎の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これを押しつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくも、これを殺すのに充分である。
しかし、宇宙がこれを押しつぶすときにも、人間は、人間を殺すものよりもいっそう高貴であるであろう。」

私はこれを正しい判断ができない。西欧には当時、キリスト教神秘主義というものがあり、これについては、現代のような状況(新興宗教による巨大な犯罪などがある状況)では、これへの発現は避けていたほうがいいと思っていた。


だから、これについては論評を避けたいと思っていたし、つい否定的なことを言ってしまう


あるパスカルのこの一説についての解説を読んだとき、反射的に否定が先に走った。


そこで書いたのが「昨今は『自分がこの大宇宙より尊い』などととうそぶく、なんとも思い上がったアホの極致、大馬鹿者(笑)はいるが、・・」である。


パスカルのパンセは、こころのつぶやきなのである。彼自身を知らないと簡単には評論できないのである。


その点、私はまだパスカルを評論できる資格はないと思っている。よく読まねばならないとも思っている。


ただ、彼が関心を持っているのは宇宙で





『無限の空間の永遠の沈黙が私に怖れを抱かせる』


パスカルはこのようなものを書きながら、この一説にたどり着いたのだろう。


すなわち『しかし、宇宙がこれを押しつぶすときにも、人間は、人間を殺すものよりもいっそう高貴であるであろう。』




古代ギリシャから、その「無限と有限」ということと、また「宇宙と時間と永遠」というテーマはいずれも多くの議論があったのだ。


もちろん、先にかいた宇宙物理学者ホーキング博士もこのテーマは知っているはずである。(実は私の興味のあるところだ)


ただ、もし、予備知識もなく、この一説に関して勝手な判断をしていたら、一言注意したくなるのだ。



それだけのことだ。



(^-^)










この無限の空間の永遠の沈黙がわたしをおびえさせる




アリストテレスは人間を「社会的動物」と定義した。


たとえば言語の獲得も、社会がなければ人間はその言語獲得すらできない。もちろん生育も。


すなわち社会があって初めて人間となるのだ。


また、私たちは、この社会的機能がねければ、私たちの生存すら危うくなる。


今度の大震災はその社会的機能の崩壊の危機に直面した確かな例だ。実際この震災で社会的機能の崩壊で

命を失ってしまった方々もいるし、なた今現在も、その危険を抱えている方々も多い。


この社会機能を拡大した時、国家の必要性が生まれ、政治が生まれることになる。


今回の大震災、そして原発事故で、この社会基盤が失われたが、海外からは、この被災者の冷静な対応にその驚きを見せているのだ。そもそも日本の国民性のなかに、すなわち高い共同体意識、そのモラルの原型があり、その法を持ち出す以前に、この共同体意識が、すなわち「社会的動物」としての意識が被災者の方々の無意識のうちに存在していて、その活動があったのだろう。これはアリストテレスの説明なくとも、その優れた国民性にあるのだろう。


しかし、近代的社会機能に慣れた我々の現在の生活からせれば、さらに高い社会機能を求めることは当然である。


その社会的機能を確かなものにするために、まずルールから、掟から法律の整備が必要となる。


ここに政治家の必要性の誕生がある。


さて、現在の政治家はどうであろうか・・


まず、崩壊した社会的機能を回復させる責任がある、政治家が何を今しているのだろう。


彼ら政治家は、そのプロなのだ。いかにこの社会的機能を確保するプロなのだ。


緊急時にはこの政治の責任者たる首相の役割は、飛躍的に重要になる。


今日は、大震災から三か月になる。


しかし、その緊急事態に対する法整備、これに関して、やっと予算が衆院を通過したに過ぎない。


これはもう政治家のプロとしては落第だ!!


菅という首相は以前から、このプロの意識が欠落していて大震災いぜんから、まだ「仮免許だから」などといって、自分の不手際の言い訳をのんきにしていた。


これは、三か月もたって、社会機能回復のめどすらはっきりしない。


ここはもう政治家のモラルの問題だ。


菅という現首相は、辞めたら「妻と一緒にお遍路へ」行きたいといってるそうだ。


いま、そんなことを言ってるときか?


辞めたら、復興支援のボランティアでもしろ!と言いたくなる。


なんとも、モラルの欠如した首相がいまの日本の責任者なのか。


このような社会的動物であるなら、なんでも自由が許されるというはずはないのである。


誰もがその社会に帰属している限り、その制約は受ける。責任も発生する。


とくにその国の首相なら、発言を含めて、その高いモラルが要求されるのだが・・・











(^-^)