哲学で死を忘れた哲学は、かなり信用できない。それはこの世だけの自分の虚栄や見栄だけの、ごまかしの哲学、不誠実なインチキ哲学と思ってまず間違えない。


何故なら、だれにでも必ず死があるからだ。この歴然たる事実。人間は、生と死があってワンセット。このこういう厳然たる事実、この真実を無視しているからである。


今の日本、この『生』だけを注目する今の日本の教育のせかいもしれない。国民も死を忘れている。今の文化の世界も、この死をあえて見ないようにしているのが現代日本なのだ。それは勇気がないだけであるが、それは本来狂いの原因にもなっている。すなわちニヒリズムにつながるのである。これで犯罪も多くなるし、どうせこの世だけと思うなら、他人などどうでもいい、自分さえよければという考えにもつながる。この世を自分勝手にとにかく楽しめということにもなる。


このように、厳然たる事実の死を見ずに暮らす暮らしはうわべだけで文化の深みもなくなる。浅薄な人間ばかり登場することになる。その陰に潜む闇は深い。他人には適当でいい加減でいい、自分さえ楽しければいいというモラル崩壊にもつながるのだ。



ただ、それでも自分も必ず死ぬという事実に目を背けてはならない。これは脅しではないのだ。事実なのだ。


宇宙物理学のホーキング博士は、先月、「死後は『無い』」と宣言した。これは話題になった。なぜなら、彼とカソリックとの関係は深かったからだ。


宗教論争はどうでもいい。とにかく、で、あるならば、ホーキング博士は物理学者として『無い』『無』とは、どういう状態なのか、真剣に説明する必要がある。『無』とは何か。この『有』と『無』ということは、かねてからの、また古くからの議論だ。もし説明できなければ、彼は単なる知ったかぶりで、いい加減に話していることになる。


ここを読んでいる方でホーキングと同じように思っている人なら、自分の事として『無』とはどういう状態なのか、自分で説明、考えたほうがいい。どうせ必ずそこへ向かわなければならない運命なのだから!その無をまずね。絶対に!!




ホーキングに関しては、できればまたいつか話したい。



(^-^)








古代ギリシャからの、一つの命題であることは言った。


これは前に言ったが、読む人が予備知識もなく、深入りして読むと消化不良を起こさせてしまう可能性があるので、再度書き直す。


ようするに、人間は幸福を求める。しかし、その選んだ幸福への道が、必ずしも幸福をもたらさない、ということだ。


すなわち、幸福への予見が甘かった、ということも大きいかもしれない。


しかし、しかし、人間が根本に抱える、人間の不完全性、この世の根本に抱える不完全性よる場合もあるだろう。



この世はそんなに甘くない、ということかもしれない。





今回の原発事故も、人々のエネルギー需要、とくに日本のような資源の乏しい国では、人々の豊かな生活を確保するために、善かれと選択したところはある。


人間の幸福とは何か、もう一度考える必要はあると思う。


ただ、『羹に懲りてなますを吹く』という、冷静さを欠いた議論は、これまたかえって不幸を呼ぶ可能性もそこにある。


ここは冷静に考えることが絶対必要だと思う。


私たちは人間の深い意味での『幸福』という視点を常に求めなければいけない。


ただ、幸福とは何か、皆は深く考えたことはあるのだろうか?





(^-^)



*「幸福」という言葉は、いろいろなものに利用されやすいことばだ。

昨今、この言葉を使った新興宗教もあるようだ。ただ、私はこのような言葉の使い方を好まない。


やはりよく学び、この幸福を言うものの再点検は、各自が必要とするところだろう。











ぐだぐだ、書いたが、ま、『幸福』を求めよう!
勿論、その『幸福』がどんな幸福か人によって異なるだろう。


素朴な幸福が、何よりの幸福だ、という古代の賢人の指摘もある。


ま、とにかくだ、幸福への方向を見失わないことがまず大切だと思う。

(^-^)