最近、『人をなぜ殺してはいけないのか』ということが、議論がされているそうである。なんとも、あきれるし、こんな話に本来まともに付き合うことこそ、じつに愚かなことであるのだが。
しかし、もし、本当にこのようなことを議論をしているなら、そのこと自体、そのような議論をする社会そのものが、崩壊に差し掛かっているかもしれないし、そんな議論をする社会は、すでに不幸な社会なのであろう。また、それを、まともな議論としては取り扱う人間の、ものの思考方法にも問題ありと思う。、今の日本は、いかに勘違いの人間たちが増殖してしまっているのだろうか、と思う。そのような社会をつくった教育。またそのような教育をしている現在のマスコミを含む教育界に根本に大きな誤りがあるのだろう。
ここにアリストテレスの社会的人間の定義を持ち出すまでもなく、人間の生存条件に社会の確かな存在が重要なことは前に話した。
しかしこの認識とは反して、現在の日本では、「自由、平等、博愛」の、本当はフランス革命の単なる、合言葉、スローガンに過ぎないこれが、それがあたかも「神聖にして犯すべからず」、かのような、絶対真理かのように子供たちや大衆に教えこまれ、教育されてしまったことに大きな原因があるのだ。政治家も、マスコミも、単なるこのスローガンの前に、何の確認、点検もなく、いとも簡単に、その前に頭を下げてしまい、そこから離れられない、思考停止の状態になっていることが大きな問題なのだ。今の日本の混迷の原因がそこある。これが今の日本の混迷の基があるのだ。本来なら天から何でも自由に発言し、なんでも自由にやりたいような行動することが許されている,
はずはない!そしてどんな行動をしたものでも平等に扱われなければならない、そして尊重大事にされなければならない、そんなはずはない。この大きな勘違いがその根本の原因なのであろう。人間は何でもかんでも、自由にすることが許されているわけではないのだ!!現代はこの勘違いが病的になっているのかもしれない。毎日のニュースなどをみると、今の日本人、当たり前のような人が、なんとも簡単に人を殺す時代になっているようだ。実に悲しい。教育界も政治家の世界も、いたるところで、よく物を考えない、適当ないい加減社会の出現を、現実にいま見ているのかもしれない。『社会より前に、まず個人の自由が尊重される?』、そんなはずはないのだ!
まず、アリストテレスに言葉に戻り、すなわち社会の存在がなければ、われわれ人間は生きてゆけないと真実、この間違えない人間の根本条件を、単なるスローガンの「自由、平等、博愛」などを云々するより前に、いまこそ、この「人間の生存条件」として、欠かせないこの社会存立基盤の、この重要なことを再確認しなければいけないのだ。
もちろん、この社会の存立の根本条件を破壊する者は、この社会から、この世の厳しい罰を受けなければならない、これは当然なのだ。むやみに「人を殺してよい」となったら、その社会そのものが存立しない。簡単なことだ。
この社会を破壊する行為「殺人」を犯したものを先に取り上げた。『SMクラブ経営者殺人事件』の犯人、陸田真志だ。
かれが逮捕拘留中に、著作家池田晶子とこの陸田真志との往復書簡が共著として『死と生きる』(新潮社)が出版された。しかし、このお二人は、もうこの世にいない。
特に陸田は結局死刑判決を下され、そしてすでに刑は執行されている。
この彼について、私の心に浮かぶことを書きたいとおもったが、いま何か時間がない。また次に・・・
(^-^)