自分を笑う。大げさに言えば、おれも小人だなぁとつくづくおもう。。誤解を恐れず言えば、この世だけのこのつまらん政治ごとに腹を立てている。この俺が情けないのかもしれない。おれにとっては人生の目標が政治になんてしまってはいけない。政治なそ愚劣ということで、相場が決まっている。


たまたま、今、NHK教育テレビで「ニーチェ」について、精神科医の斉藤環、ドイツ現代哲学の西研 の両名が解説していた。なにやらニーチェがいま流行しているらしい。


おれはニーチェを信奉しているわけではないが、読んではいる。こやつニーチェを読むと、かなりの馬鹿でもいささか元気が出る。今、混迷の時代に、精神科医がニーチェを薦めるのはなんとなくわかる気がする。


ただ、ニーチェは西欧の中心文化を形成しているキリスト教的価値感との対立で向き合っているので、本来ならそのキリスト教を十分理解していないと、彼の主張の半分、いや三分の一くらいしか、理解できず、特に日本などのキリスト教の影響がまだ少ない地では、底の浅い、単なる我儘を作り出す役割しかないのではないかとも思える。


もちろん、戦後の我々が受けた教育の中心は、やはり日本国憲法であろう。これは昭和20年の日本の敗戦後、戦勝国アメリカの価値観で作られたことは間違いない。その中心思想はある意味、アメリカの根底にあるキリスト教思想が背景にあることは事実で、その意味で、今の日本人のものの考え方には、表面的な人にとっては、自由、平等、博愛というキリスト教文化の影響があることも、そういえるかもしれない。


私もここのところ、書いてることだが、真実を大切にする人にとっては、この世はすべて自由であるはずはなく、嘘っぱちであり、すべてが平等であるなど錯覚を与えるこの誤り。また歯の浮いたような形だけの優しさ、こんなのはまっぴらさ、とニーチェの言葉に近いものを感じるものも多いかもしれない。


ニーチェはもともとは、西欧のもう一つの文化的背景にあるギリシャ文化、そのギリシャ古典の文献学者であったので、ユダヤ、キリスト教、イスラム教の三兄弟的宗教とは価値観を異にするのは当然かもしれない。


よくギリシャ古典文化をキリスト教文化と同一視する日本の人がいることが多いが、古代ギリシャ文化は根本のところで、キリスト教文化とは異なるのだ。


だから、ニーチェはキリスト教文化を否定したが、一方でかなり、ギリシャ古典と格闘しているのだ。


おれの感想だが、一精神科医が、気付け薬として、患者に薦めるのは、多少はわかる気がするが、本当のニーチェが格闘している相手がなんなのかを見ておらず、ニーチェそのものではなく、トンチンカンな誤解をももって、早合点な、いわばインチキ臭いニーチェ信奉者を量産するのではないかと、苦笑している。これは日本人の欠点だが、何でも早わかりをすぐにもとめ、手軽なインチキ薬で誤魔化すってこと、よくするのだが、ここにはちょっとのいただけない疑問がある。


まずは、この精神科医の先生がもっと哲学を勉強すべきである、とのことが私の結論なのである。



(^-^)