人の運命とは、微妙なもの。
二二六事件で他の青年将校はどうでも、この安藤輝三大尉は、そこいらの凡庸な将校ではなかったようだ。
いまは、六本木の国立新美術館となっている、歩兵第三連隊の中隊長。軍務局等からもかなり信頼された人物のようだ。
当時は二二六事件の前年に永田鉄山軍務局長が相沢中佐に惨殺されるなど、陸軍内部の派閥抗争が激化、どうしても、その抗争の渦に陸軍軍人は皆が巻き込まれてゆくものであった。これは、今の民主党内部の抗争、また1970年代の学生運動の過激化と、内ゲバともいわれる内部抗争と同じで、自分たちの将来に危機を感じた組織に起こりやすい現象なのかもしれない。話を当時の国際情勢をみれば、1930年にロンドン軍縮会議などがあり、外国勢力から日本の軍備力の削減などが持ち出され、日本の軍部にはその不満、危機感、緊張感が増大した。いろいろな事件があったが、特に陸陸軍士官学校出の磯部浅一という青年将校などが書いた「粛軍の意見書」が原因で、それに刺激され激情家の相沢という一中佐が軍務局長惨殺という暴挙にでたもので、軍の内部は緊張した状態が続いた。そして二二六事件は起きた。
ここに登場させた、永田鉄山という人物。もし、この男が殺されなければ、太平洋戦争は起きなかったという者も実に多い。ようするに、だれがリーダーになるかで、ことが大きく変わる。そのリーダーの人物の能力でいかようにも変わり、また幸不幸もその人物にかかるところが実に多いのだ。
また、私はその騒動とは別に、青年将校の一人、安藤輝三、この人が実に気にかかるのだ。本来なら決起に参加しないと思われていた人物だ。この決起の首魁(首謀者)の磯部浅一も彼を実行部隊に予定していなかった。ただ、この磯部と安藤は陸軍士官学校当時、同期で友情のようなものもあったようだ。当初から彼は計画の実効性などに疑問があり、躊躇していたようだ。しかし、安藤は、磯部たちの計画したこの決起に結局参加することになる。
当時は日本への国際情勢の悪化に加え、東北では大凶作が続き、農民は餓死や少女は身売りするような大変な状況であったようだ。どうも、安藤の磯部への友情というより、むしろ、彼が貧窮する農民たちを深く知り、それをなんとか救済するつもりで,まったく無策な当時の政府を変え、なんとかしようと、決起に参加したふしがある。事実、かれは最後の最後まで戦ったが、ついに敗北を認めるときになって、ピストルで自害しようとした。しかし、即座にまわりから羽交い絞めにされ、それもできなかったようだ。そして、連行される際、東北の農民たちを必ず救済するようと部下に遺言として言い残し、刑を執行される日をまったようだ。
これをみると、安藤輝三という本来とても有能なこの青年将校は、磯部たちのように、軍部内対立からの大騒動の続きで、というより、今、貧窮するこの東北の農民たちの窮状を無視できず、なんとかさせようと、いやおうなく立ち上がった感が実に大きい。もしろん、一般の歴史書では安藤を皇道派の一人としか書かれていないが・・。
なんとも、惜しい人物をなくしたものだ。