エレナ・ポーター(村岡花子訳)『少女パレアナ』(角川文庫)を読みました。
実は今ちょっと困っていて、ぼくは以前このブログで、今回紹介する小説の新訳版、すなわち木村由利子訳の『新訳 少女ポリアンナ』を取り上げたことがあると思っていたんです。
それならあえて旧訳の村岡花子訳で読もうと思って読んだんですけど、さっき調べたら前も読んだの村岡花子訳でした。違う人の訳だとか、あるいは文学全集の中に入っていたから仕方なくとか、同じ作品を取り上げたことは何度かあります。
ただ、まったく同じ本って取り上げたことが多分ほぼなくて、同じ本なら以前書いた記事を見てね、ですむ話ではあるのですが、その前の記事というのが2012年の3月19日で、ほぼ10年前。そんなに前ならまあ新しく書きますか、ということで今こうして筆をとっております。
もっとも今回『少女パレアナ』を読み返した一番の目的が、未読の続編『パレアナの青春』をこの機会にちゃんと読んでおきたいということだったので、それに連なる記事として、書いておいても無駄ではないかなと思います。
さてさて、今回紹介する『少女パレアナ』は、簡単に言うと、物事の明るい面を見て生きようとするパレアナという孤児の行動が、まわりの人々、そしてやがては町全体を変えていくという物語。
素直に読めば、愛に満ちた素敵なお話で、それ故に大ベストセラーになったわけですが、今ではちょっとクエッションマークがつけられてもおかしくない作品でもあります。
それは、どんな時にも物事のいい面を見つけようとするパレアナの行動は、ある意味では現実から目をそらす逃避的な行動でもあるから。楽天家すぎる主人公のキャラクター性は、気になる人は気になるところだと思います。
少し前に紹介した、同じ作者の後期の作品『スウ姉さん』は、ある意味では『少女パレアナ』とは対照的な、厳しい現実に向き合って、ひたすら耐える主人公の物語になっているので、あわせて読むとより一層色んなことを考えさせられて、面白いかもしれません。
作品のあらすじ
父、母、姉妹をみな亡くし、孤独に暮らしている四十女のパレー・ハリントンはメイドのナンシーに、子供が住めるよう屋根裏を片付けるように命じ、しかめ面をしながら西部の町から来た手紙を読み返します。
そこには、今は亡き姉の夫が亡くなり、11歳の娘が残されたこと、ミス・パレーにその娘を引き取って養育してもらいたい旨が書かれていたのでした。
姉が選んだ夫は貧しい牧師であり、家族中から反対された結婚だったので、姉夫婦はハリントン家と一切かかわりを持っていませんでした。義務として姪を引き取ることを承諾したものの、ミス・パレーは駅に迎えにすらいこうとしません。
ナンシーに連れられてやってきた少女パレアナ・フィテアに、ミス・パレーは、「あんたのお父さんのことはわたしはあまり聞きたくないんだよ」(30頁)と父親の話をすることを禁じました。大好きだった姉を奪った人であるが故に、いい印象を抱いていないからです。
快適とは言えない屋根裏に住まわせ、夕食の時間に遅れたパレアナにはパンと牛乳しか与えようとしないミス・パレー。ナンシーはパレアナを気の毒がりますが、パレアナはまったく気にしてはいない様子です。
「あなたはなんでも喜べるらしいですね」あの殺風景な屋根裏の部屋をも喜ぼうとしたパレアナの努力を思いだすと、少し胸がつまってくるような気がしました。
パレアナは低く笑いました。
「それがゲームなのよ」
「え? ゲームですって?」
「ええ、『なんでも喜ぶ』ゲームなの」
「いったい、なにを言ってらっしゃるんです、それは?」
「遊びのことを言ってるのよ。お父さんが教えてくだすったの。すばらしいゲームよ。あたし、小さい時からずうっと、この遊びをやってるのよ。婦人会の方たちにもお話ししたらね、やりだした人もあるのよ」(41頁)
ナンシーはパレアナから遊びについて教えてもらいます。それはお父さんが教えてくれた遊びで、松葉杖がきっかけでした。パレアナはお人形が欲しかったのですが、教会本部から送られてきたのは松葉杖だったのです。
慰問箱にあったのは松葉杖で、お人形はなかったから。パレアナはがっかりしますが、お父さんはそういう時は喜ぶことを探し出す遊びをするといいと教えてくれました。
パレアナは喜びを見つけます。自分は杖を使わなくてもすむからうれしいと。それ以来パレアナはずっと、どんなに嫌なことがあったとしても、そこから喜ぶことを探す遊びをし続けているのでした。
パレアナは出会った町の人々にその遊びを広めていきます。病気で寝たきりの生活で、持ってきてもらった料理に文句ばっかり言っているスノー夫人や、お金持ちだけれどいつも陰気な顔をして、町の人とは決して交流しようとしないジョン・ペンデルトンなどに。
ペンデルトンには、初めは話しかけても無視されますが、次第に皮肉めいた反応ではあるものの、あいさつをかわしてくれるようになり、ペンデルトンが事故で足を骨折した時に助け、お見舞いに行ったことで少しずつ打ち解けていきます。
パレアナは一生のけがじゃなくてよかった、それに折ったのが両足ではなく片足でうれしいと言い、ペンデルトンは、「ぼくは百足虫(むかで)でなくてよかった。百足虫なら五十本の足を折ることになるんだから」(131頁)と返したのでした。
パレアナと過ごすようになって、孤独な暮らしをしていたミス・パレーは自分の心の変化に戸惑います。いつの間にかちょっと変わっているパレアナのことを悪く思わないようになり、それどころか、その思いがけない反応を楽しむようにさえなっていたから。
一方のパレアナは、大好きなパレー叔母さんにも喜びを見つける遊びのことを教えようと何度も試みたのですが、そのきっかけであるお父さんの話を禁じられているために言葉につまり、いつも伝えられずにいます。
やがて、どんな時にでも喜びを見つけるという不思議な遊びを通して、町の人々の心を明るく変えていったパレアナの身に、思いがけないことが起こって……。
というお話です。今回改めて読み直して思ったのですが、『少女パレアナ』は読み物として純粋に面白いですね。物語の内容にかかわるのであまり触れられませんが、シンプルそうでいて実はちょっと凝った物語の構造になっているのが楽しいです。
あとは、マンガなどのキャラクター性をさす言葉で、「ツンデレ」という言葉がありますよね。普段はツンツンとした不愛想な態度を取っているけれど、特定の人や状況でデレる、すなわち好意的な一面をしめすというもの。そのギャップに意外性があって魅力が生じるというものです。
パレアナと出会う前の町の人々はほとんどが嫌なやつ、というか、孤独だったり鬱屈した日々だったりを送っているが故に、パレアナに冷たい態度を取ります。でもそれが「遊び」を知って、段々とやさしくなっていくわけです。
そうなるとこれはもう完全にいわゆる「ツンデレ」のパターンで、ツンツンした人が出てくると、もう後はどんな感じでパレアナにデレるのかを楽しみに待つという黄金パターンができあがるわけで、それもまた読んでいて楽しく思いました。
どんな時にでも明るい面を見つけようとする少女の物語で、個性的な登場人物も、そしてストーリーも魅力的な作品なので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。
『少女パレアナ』には『パレアナの青春』という続編があり、10年前にもそれを近い内に読みたいと書いてブログ記事をしめくくったのですが、今回こそ近い内に読んで紹介できたらいいなと思っています。