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新編日本古典文学全集『土佐日記/蜻蛉日記』(小学館)の「土佐日記」を読みました。
平安時代の古典には「蜻蛉日記」や「和泉式部日記」など日記とつくものがあります。現代的な感覚からすると、タイトルに日記とつくだけでなんだかつまらなそうという感じがあるのではないでしょうか。
何故なら日記というのは単なる記録であって、記録と言うのはどうしても情味に乏しい、無味乾燥なものになってしまいがちだからです。
ところがぼくのそんな印象を吹き飛ばした作品が「蜻蛉日記」であり「和泉式部日記」だったのでした。和歌が中心の、みずみずしい印象の物語としても読める「和泉式部日記」は、特に心に残っています。
平安時代の日記文学が、日記なのにどうしてそこまで魅力があるかというと、実は現在イメージされる日記とは少し違ったものだからです。現在の日記は起こった出来事を毎日記録していくものですよね。
しかし、「蜻蛉日記」も「和泉式部日記」も日々つけていた記録ではなく、人生を回想しつつ筆をとった作品。印象に残っている出来事を再構成したものなだけに、情緒あふれる作品になっているのでした。
そうした文章スタイルが、文学でなにに近いかと言えば、日記ではなくむしろ私小説で、実際、三人称で書かれている「和泉式部日記」は「和泉式部物語」と呼ばれていたこともあるくらい物語的なのです。
さて、平安時代に花開いた女流日記文学の元をたどっていくと、ある作品にたどり着きます。その作品こそが今回紹介する「土佐日記」です。平安時代中期に成立したとされていて、書き出しはこんな文章。
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。
それの年の師走の二十日あまり一日の日の、戌の時に門出す。そのよし、いささかものに書きつく。(15ページ)
男が書くという日記を女も書いてみようと思って書く。ある年の十二月二十一日午後八時頃出発した。旅の様子を少しばかり書いていく。
国語の教科書などにものっている、有名な文章ですよね。当時、日記といえば男が書くもの、すなわち漢文での記録だったのですが、女である自分も書いてみようと言って、かなの文章で書かれたのでした。
非常に興味深いのが「土佐日記」の作者が紀貫之であること。紀貫之は三十六歌仙の一人で『古今和歌集』の撰者の一人ですが、そう、男性なんですね。男性が女性のふりをして書いている作品なんですよ。
何故、女性の筆という形にしたのか、分かっていないことも多いのですが、和歌を自然に取り入れるため、そして、単なる記録ではなく心情を描くために、かなの文章で書かれたのではと考えられています。
どんな内容かというと、ある国司が任期を終えて都へ帰って来るというもの。嵐に苦しめられ、海賊に怯えながら、五十五日間かけて船で帰る旅の様子が一行の中にいる女性の目から語られていく作品です。
「土佐日記」の何よりの魅力は、他の日記文学のように、決まった男女の贈答歌(送り合う歌)が中心となるのではなく、船に乗り合わせた色んな人によって、目にする風景や感情などが詠まれていること。
風景の美しさや、船旅の不安が感じられる、抒情的な作品なのです。
どうして「土佐日記」という題名なのかはよく分かっていないのですが、紀貫之は土佐の国守をしており、はっきりとは書かれていないものの土佐からの旅であろうことからそうした題名がついたようです。
ところで、紀貫之と言えば有名なのは、「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」という歌だろうと思います。
「百人一首」にもとられた歌で『古今和歌集』の詞書(ことばがき。どういう状況で詠まれたかの説明文)には奈良の長谷寺参詣の時によく訪れていた家に行き、長い無沙汰を皮肉で責められたとあります。
そこで、さあどうでしょう、人の気持ちは分かりませんが、昔なじみのこの土地では、梅の花が以前のままの香りで咲いています、花の香りは変わらないが、あなたの気持ちはどうですかと返したのでした。
面白いですよね。嗅覚は記憶と結びつきやすいものなだけに印象的です。なつかしい場所に行き、なつかしい風景を見て、人の心を思う感覚は「土佐日記」にも出て来るので、ぜひ、注目してみてください。
作品のあらすじ
それぞれの章段で、印象的だった部分を中心に、紹介していきます。
「一 船路なれど馬のはなむけ」
ある人が、国司としての四、五年の任期を終えて、都へ帰ることになりました。馬を使う陸ではなく海を行くのですが、知り合いが馬のはなむけ(旅立つ人のための別れの宴や餞別のこと)をしてくれます。国分寺の僧が餞別に来てくれた時は、身分の上下にかかわらずみな酔っぱらい「一文字をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ」(16ページ)文字を知らぬ者も十文字を踏むような千鳥足でした。
新しい国司に招待されて、もてなしを受けます。宴では漢詩なども詠まれましたが、女である自分には分からず書くことが出来ません。前国司と新国司はお互いに心のこもった和歌を送り合って別れました。
「二 白馬を思へどかひなし」
十二月二十七日にいよいよ船出します。一行の中には、京で生まれた女の子をこちらで亡くした女性がいて、悲しみ恋しがっていました。その様子を見て「みやこへと思ふもののかなしきはかへらぬ人のあればなりけり」(18ページ)都へ帰ると思ってもどことなく悲しい気持ちがするのは、帰らぬ人があるからなのだと詠んだ人がいました。
思ったよりも旅が遅れ、一月七日に宮中で行われる宴、白馬(あおうま)に間に合いません。目にうつるのは白馬ではなく白い波ばかり。
船旅の途中、食事などを持って来てくれた人が大声で大したことのない歌を詠みます。誰も返歌をしなかったので、ある子供が返歌をしようとしましたが、その人はいつの間にかいなくなっていたのでした。
「三 御崎といふところわたらむとのみ思ふ」
やがて、船は宇多の松原を通ります。幾千年を経た松の根元には波が打ち寄せ、枝ごとに鶴が飛びまわっている、とても美しい光景です。「見わたせば松のうれごとにすむ鶴は千代のどちとぞ思ふべらなる」(26ページ)どの梢にも住む鶴は松を千年も変わらぬ友達と思っているようだと詠んだ人がいますが風景の素晴らしさには敵いません。
みんな船に乗り始めの時は、海神に魅入られてしまうからと派手な着物を着ないぐらいでしたが、今はかまうものかとまくりあげて老海鼠(ほや)や鮑(あわび)(男性器、女性器)を見せつけるようです。
美しい月を見て阿部仲麻呂の歌を連想し、「みやこにて山の端に見し月なれど波より出でて波にこそ入れ」(35ページ)都では山の端に見えた月なのに、波から出て波に入っていくと詠んだ人がいました。
ある時、岩に集まっていた黒鳥という鳥を見て楫取(かじとり。船頭)が言った「黒鳥のもとに、白き波を寄す」(35~36ページ)黒い鳥の元へ白い波が寄せるという何気ない一言が印象に残ります。
「四 みやこへと思ふ道のはるけさ」
海が荒れ模様の時には「波とのみひとつに聞けど色見れば雪と花とにまがひけるかな」(37ページ)耳で聞けば波だと思うだけだが、色を見ると、雪にも花にも見間違えそうなものだと詠む人がいました。そして風がなく波が立たない日には「たまくしげ箱の浦波立たぬ日は海を鏡とたれか見ざらむ」(42ページ)箱の浦に波が立たない日は海を鏡のようだと見ないひとがいるでしょうか、と詠む人がいます。
海賊が現れるという危険な場所を通るので、航路安全を祈願するところで楫取に御弊(麻などで作った神への捧げもの)を奉らせました。やがて船は歌枕(歌に詠まれる名所)として名高い住吉を通ります。
また、住吉のわたりを漕ぎ行く。ある人のよめる歌、
今見てぞ身をば知りぬる住江の松より先にわれは経にけり
ここに、昔へ人の母、一日片時も忘れねばよめる、
住江に船さし寄せよ忘草しるしありやなしやと摘みて行くべく
となむ。うつたへに忘れなむとにはあらで、恋しき心地、しばしやすめて、またも恋ふる力にせむ、となるべし。(46ページ)
住吉のあたりを通った時には、長く年を重ねる住江の松よりも自分が年を重ねてしまったことに気が付いたという歌を詠む者がいました。
また、女の子を亡くした例の女性は、忘れ草がほんとうに効くかどうか摘みたいから住江に船を寄せてという歌を詠みます。忘れるためでなく、気持ちを休めて、また思い出す力にするつもりなのでしょう。
風が強く吹いてきて船が進まなくなります。幣を奉っても風は一向にやまないので、海神の気持ちをおさめるため鏡を海に落としました。
「五 思ひ出でぬことなく、思ひ来し」
嵐や海賊の恐怖に怯えたり、船酔いする者が出たりして、予定以上に時間がかかってしまった、不安なことの多い船旅でしたが、なんとか無事に都の近くの山﨑の橋に着きました。京に車を取りにやります。二月十六日。無事に家に帰り着きましたが思いがけない様子でした。
家に到りて、門に入るに、月明ければ、いとよく有様見ゆ。聞きしよりもまして、いふかひなくぞ、こぼれ破れたる。家にあづけたりつる人の心も、荒れたるなりけり。中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、望みてあづかれるなり。さるは、たよりごとに物も絶えず得させたり。今宵、「かかること」と声高にものもいはせず。いとはつらく見ゆれど、志はせんとす。(55ページ)
家に着いて門を入ると、月が明るいのでよく見える。聞いていたより壊れてぼろぼろになっており預けた人の心もすさんでいたのだった。中垣こそあるが一つの家のようだからと、隣で預かってくれたのに。
なにかある度に贈り物もしていた。今夜は「こんなことって」とみんなに言わせることはしない。ひどいとは思うが、一応お礼はしよう。
荒れている庭の、池のほとりには新しく生えた松がありました。この家で生まれて、旅先で亡くなった女の子のことを思って、歎きます。
「生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ」(56ページ)生まれた者が帰らないのにその間に育った小松を見るのは悲しいことだ、と詠んだ者がいました。こんな歌も詠まれます。
「見し人の松の千歳に見ましかば遠く悲しき別れせましや」(56ページ)あの子が、千歳も生きるという松のように長生きするのだったら、こんなにも遠くて悲しい別れをすることもなかっただろうにと。
忘れがたく、口惜しいと思うような出来事は多いですが、すべてを書き尽くすことなどは、とてもできません。「とまれうまれ、とく破りてむ」(56ページ)とにもかくにも、こんな本は破ってしまおう。
とまあそんな作品です。途中月を見て連想する阿倍仲麻呂の歌というのは「百人一首」にもとられている「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 井でし月かも」です。かなり有名な歌ですよね。
「土佐日記」では、「天の原」がおそらくは意図的に、「青海原」に変えられていて、海の上の風景になっているのですが、月を見て、故郷の奈良の春日の三笠山に出た月と同じ月なのだなあと思う歌です。
阿倍仲麻呂は遣唐留学生として唐に渡った人物で、故郷を思いながらも結局唐から帰ることが出来ずに亡くなりました。この歌は『古今和歌集』の「羈旅(きりょ)」という、旅の部門に収録されています。
「土佐日記」はそうした「羈旅」の歌の影響が大きい作品で、松尾芭蕉の「おくのほそ道」とも共通する、目の前の風景を詠む面白さがある作品。特に、荒れ模様の海と静かな海を詠んだ歌が印象的でした。
有名な作品ですが、意外と読まれていない作品だとも思うので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。この全集で40ページほどの短い作品です。意外と諧謔味(しゃれなど)があって面白いですよ。
明日は、ピエール・ブール『猿の惑星』を紹介する予定です。