「おくのほそ道」(新編日本古典文学全集『松尾芭蕉集②』) | 文学どうでしょう

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新編日本古典文学全集 (71) 松尾芭蕉集 (2)/小学館

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新編日本古典文学全集『松尾芭蕉集②』(小学館)の「おくのほそ道」を読みました。

エリアごとに、ランキング形式でおすすめスポットを紹介する「出没!アド街ック天国」というテレビ番組があります。前回取り上げられていたエリアは東京都足立区にある西新井大師とその周辺でした。

ぼくは西新井大師まで歩いていける所に住んでいて、ちょうどつい最近初詣にも行ったばかりだったので、知っている場所が色々出て来て嬉しかったです。特に、商店街の餃子屋はよく買いに行くんですよ。

テレビで魅力的に紹介された場所には行ってみたくなるものですが、テレビがなかった時代、たとえば江戸時代にはどんな風に情報交換していたのでしょう。それこそ口コミが大事だったかも知れませんね。

人から聞いた話以外で考えられるのが、古くからよく知られている地名でしょう。そして、古くからよく知られている地名と言えばやはり、歌で詠まれ続けて来た地名ということになるだろうと思います。

歌で詠まれる名所・旧跡を「歌枕(うたまくら)」と言います。たとえば「伊勢物語」で紹介した歌の「竜田川」がそうですが、「竜田川」と言えば紅葉という風にある種の固定したイメージがあります。

歌人はそうした「歌枕」を取り入れて、歌を作り続けてきたのです。

ただ、固定したイメージはあるとはいえ、実際に「歌枕」の場所を訪れてみたいと思っても不思議ではないですよね。江戸時代にまさにそう思った人物がいて、家を引き払い「歌枕」をめぐる旅に出ました。

奥州各地を渡り歩き、旅した距離は600里(およそ2400キロ)。旅した期間は5ヶ月あまり。その人は俳人だったので行く先々で感じたことを、発句(ほっく。後の俳句)として書きとめました。

その人物こそ、松尾芭蕉。その俳諧紀行が、今回紹介する「おくのほそ道」です。全国各地に松尾芭蕉や「おくのほそ道」にゆかりの地があるので、みなさんもなにかしらの形でご存じではないでしょうか。

ぼくの住んでいる足立区にもゆかりの地がありまして、千住大橋に石碑があります。松尾芭蕉が住んでいたのは江東区深川だったのですが、旅立って初めの宿駅(宿泊のための場所)が千住だったのです。

その千住で記念すべき、旅で最初の句が詠まれました。「行春や鳥啼魚の目ハ泪」(76ページ)去りゆく春を思い鳥は悲しげに鳴き、魚の目には涙があふれると、旅立ちの別れのさみしさを感じさせる句。

矢立(やたて)という携帯用の筆・墨入れがあるのですが、それを初めて使ったので千住大橋には「奥の細道矢立初の碑」があるのです。

そんな風に松尾芭蕉ゆかりの地はいたるところにあるので「おくのほそ道」で描かれた名所・旧跡を旅行するのも楽しそうですが、実は、松尾芭蕉もまた、遠い昔に思いを馳せて心を震わせていたのでした。

それがよく分かるのが現在の宮城県にある、蝦夷との戦いをくり広げた多賀城跡にある壺の碑(つぼのいしぶみ)を目にした段「二一」。

 むかしよりよみ置る哥枕、多くかたり伝ふといへども、山崩れ川流て、道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木ハ老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りてうたがひなき千載の記念、今眼前に古人の心を閲ス。行脚の一徳、存命の悦、羈旅の労をわすれて、泪も落つるばかり也。(93ページ)


歌枕は月日が経ち姿が変わってしまったものも多いけれど、この壺の碑は千年の昔と変わらず古人の心に触れる思いがすると。旅をしてよかったと喜びを噛みしめ、疲れも忘れて涙をこぼしそうになります。

ぼくたちが旅行をして、「ここが『おくのほそ道』で描かれた場所かあ」と感慨にふける感じと同じか、あるいは、それ以上の感動ぶりですよね。こんな風に松尾芭蕉の気持ちが伝わって来る作品なんです。

「おくのほそ道」の面白さは、長い年月を経ているが故に生まれた歴史の余韻、その情緒とさみしさを松尾芭蕉が感じ取り句にしているところ。読んでいるだけでしみじみと心動かされる感じがありました。

作品のあらすじ


有名なものやぼくがとりわけ印象に残ったいくつかの章段を簡単に紹介していきます。興味を持った章段は原典で読んでみてくださいね。

※本文の引用は、踊り字や漢字の表記を、一部改めた所があります。

「一」

こんな書き出しで始まります。

 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふるものは、日〻旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。(75ページ)


「百代の過客」は、唐の詩人李白の詩からの語で、永遠に歩き続ける旅人のこと。来ては去り、またやって来る年もまた旅人のようです。

舟や馬で暮らしながら年齢を重ねる者は、まるで旅そのものを生きているかのよう。思えば、風雅を解する昔の人々(たとえば、西行や唐の李白や杜甫)の多くもまた、旅の途中で亡くなっているのでした。

そう思う内にいつしか、歌枕として有名な松島などをめぐる旅に出たいと思うようになり、住んでいた家を人に譲るとついに旅立ちます。

「七」

旅に同行してくれることになった門人の曾良は、旅立つ朝に髪を剃り墨染の僧衣に変え、俗名の河合惣五郎を法名の宗悟へと改めました。

まだ頂に白い雪を残す黒髪山という山を見た時に曾良は、「剃捨て黒髪山に衣更」(79ページ)衣替えの日に黒髪山にたどり着き、黒髪を剃り僧衣に着替えた日のことが思い出されるという句を詠みます。

「二十四」

旅路の果てに、現在の宮城県にある名勝池、松島にたどり着きました。中国の洞庭湖や西湖に比べても劣らないほど美しいと思います。

松のみどりこまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其景色窅然として、美人の顔を装ふ。千早振神の昔、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽さむ。(96ページ)


松の緑は濃く、潮風に吹き曲げられた枝葉は、自然のものながら整えられたようだ。松島のうっとりするような美しさは、北宋の詩人蘇東坡が西湖について言ったように、美人が化粧をしたような趣がある。

神代の昔に大山祇の神が作り出したようなこの美しさを、どのような人が、絵画や詩文で表現し尽くすことが出来るだろうかと思います。

「二十八」

やがて、現在の岩手県にある平泉へたどり着きました。奥州藤原氏の三代の栄華も、歴史からすると一瞬の夢のようだと思います。源義経などの様々な戦いの跡も、今では草むらへと変わっていたのでした。

その風景は、唐の詩人杜甫の「春望」の「国破レテ山河在リ。城春ニシテ草木深シ」を連想させ「夏艸や兵共が夢の跡」(100ページ)戦いのあった場所には、夏草が生い茂っていると詠ませたのでした。

中尊寺の光堂を見て一句。「五月雨の降残してや光堂」(100ページ)。辺りはもう朽ち果てていますが、屋根がある光堂は長年の五月雨も避けたのかそのまま残っていて昔をしのぶことが出来たのです。

「二十九」

旅の宿では辛いこともあります。小黒崎・美豆の小島を過ぎ、出羽国の山越えに入ろうとしましたが、滅多に人が通らない所だけに関守に怪しまれて大変な思いをし、山の上で日が暮れてしまったのでした。

宿もなく国境の番人の家に泊めてもらいましたが、風雨が強く三日の間身動きがとれません。「蚤虱馬の尿する枕もと」(101ページ)ノミやシラミが出て馬が枕もとで小便するようなひどい環境でした。

「三十一」

現在の山形県にある山寺、立石寺を訪ねます。山上の本堂近くにある岩々や、松などの木、コケは時代を感じさせる美しさがありました。

岸をめぐり岩ヲ這て、仏閣を排し、佳景寂莫として、こゝろすミ行のミ覚ゆ。
  閑さや岩にしみ入蟬の声(103ページ)


崖のふち、岩の上を這うようにして仏殿に参拝したのですが、素晴らしい風景がひっそりと静まり返っていて、心が澄み渡るようです。ただセミの声だけが岩にしみとおるかのように聞こえてくるのでした。

「三十二」

大石田という所で俳諧をしている人々に出会い、「新古ふた道にふミまよふといへども、道しるべする人しなければ」(103ページ)古い句風と新しい句風で迷っているから、教えてほしいと頼まれます。

そこで歌仙(かせん。俳諧連句の一形式)をすることになりました。「このたびの風流爰にいたれり」(103ページ)と、こうして自分の俳諧の流儀(蕉風)を、旅の途中で教えることを面白く思います。

「三十三」

陸奥から流れいくつか難所を越え、酒田の海に入る最上川をくだります。白糸の滝は青葉の間を流れ落ち、岸に仙人堂が立っていました。

川は水がみなぎって流れているので、船でくだるのに危険を感じるほど。「さみだれをあつめて早し最上川」(104ページ)五月雨の雨を集めたかのように、奔流となって流れ下る最上川だと詠みました。

「三十九」

北国の難所を越えて疲れた、ある夜。宿の向かいの部屋で若い女の話し声がします。どうやら伊勢に参宮しようとしている遊女たちのようでした。翌朝、心細いので旅の道連れになってほしいと頼まれます。

しかし、自分たちはとまることが多いから、同じ方向に行く人たちについて行きなさい、きっと神様の加護があると断ってしまいました。

かわいそうなことをしたという思いはありましたが、「一家に遊女も寐たり萩と月」(113ページ)遊女と一つ屋根の下で泊まることになるとは空の月と萩の花のように不思議な取り合わせだと詠みます。

「四十一」

現在の石川県にある太田神社にたどり着きました。太田神社には『平家物語』などにも登場する斎藤別当実盛の遺品が所蔵されています。

「むざんやな甲の下のきりぎりす」(115ページ)兜を見ると、白髪を染めて戦った実盛がしのばれ、兜の下では、そのいたわしさを誘うようにキリギリス(現在のコオロギ)が鳴いていると詠みました。

「四十九」

いよいよ歌枕をめぐる俳諧の旅も、終わりが近づいて来ました。現在の岐阜にある大垣の町に着くと、体調不良のために別れていた曾良や親しい人々が集まって、旅が無事に終わったことを喜んでくれます。

しかし伊勢の遷宮があるというので船に乗り、「蛤のふたみに別行秋ぞ」(122ページ)より一層別れがつらい秋に、ハマグリのふたと身が別れるようなさみしさを感じつつ、伊勢へと旅立ったのでした。

とまあそんな作品です。有名な句はほぼ紹介出来たかと思います。知っている句も多かったのではないでしょうか。意外だったのが松島の所でこの美しさはとても言葉で表現できないとだけ書いていたこと。

じゃあ、あの有名な「松島やああ松島や松島や」はなんなんだと思いましたが、どうやらあれは松尾芭蕉の句ではないらしいです。言葉にできない感動を表すにはこれしかないと後から作られたとのことで。

ところで、ぼくは今まで読んだ古典の中で、「おくのほそ道」がかなり好きなんですよ。それというのも漢詩の要素を取り入れて、思想性すら感じさせるほど、人生の無常観やさみしさが描かれているから。

漂泊に(流れ漂い)生きるということは、おのずからかたくるしい決まりから逃れて生きることであり、そしてそれは同時に、ごく質素に暮らすということもでもあります。所有せず、拘泥せず生きること。

なかなか出来ることではないですが、憧れてしまう生き方ですよね。

中国の諸子百家に荘子がいますが、その考え方とも近いところがあって、なんだか妙に惹かれるものを感じます。同じような意味で、面白さを感じる日本の古典が『徒然草』なのですが、それはまた改めて。

「おくのほそ道」は単なる旅の写実的な記録ではなく事実が色々と編集されていることが、曾良の日記が発見されたことで分かりました。

一つ一つの言葉はもちろんそうですが、場面としての繋がりや展開など、実は色々な部分で松尾芭蕉の文芸的な意識が働いている作品だったんですね。「私小説」の先駆けのように言われることもあるほど。

興味を持った方は、ぜひ「おくのほそ道」を読んでみてください。名前は知っていても読んだことがないという方が多いと思いますが、この全集でも50ページほどの意外と短い作品なので読みやすいです。

明日は、時雨沢恵一『キノの旅』を紹介する予定です。