萩原朔太郎『猫町 他十七篇』 | 文学どうでしょう

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猫町 他十七篇 (岩波文庫)/岩波書店

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萩原朔太郎『猫町 他十七篇』(岩波文庫)を読みました。

みなさんは、幻想的な文学がお好きですか? もしお好きなら、この本は非常におすすめの一冊ですよ。奇妙な世界に入り込んでしまったような、不思議な感覚で紡がれた作品集です。

まず先に、表題作の「猫町」の、有名な場面を紹介しましょう。山奥にあるはずもない、きらびやかで都会的な町に迷い込んでしまった〈私〉は、不思議な光景を目にすることとなります。

 瞬間。万象が急に静止し、底の知れない沈黙が横たわった。何事かわからなかった。だが次の瞬間には、何人にも想像されない、世にも奇怪な、恐ろしい異変事が現象した。見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。そして家々の窓口からは、髭の生えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れていた。(27ページ)


そう、猫が人間のように動き回る、不思議な町が登場する短編なんです。なんだかとても幻想的で面白いですよね。

この本の作者の萩原朔太郎は小説家ではなく、口語自由詩を確立したと言われる詩人。折角なので、口語自由詩について少し書きましょう。

まず、五七五七七の形式を持つ和歌や、五七五の形式を持ち、季語を含む俳句を思い浮かべてみてください。

和歌や俳句では、文語と言って、書き言葉としてしか使わない古めかしい言葉を使ったり、厳密な形式があったりしますよね。形式のある和歌や俳句のことを、定型詩と言います。

口語自由詩というのはつまり、文語定型詩の反対ですから、話し言葉のようなやさしい言葉で、決まった形式を持たず、自由に書かれた詩のことです。現在の詩のイメージとほとんど同じですね。

現在で詩と言うと、愛とか夢とか、ふわふわした感じのものをみなさんは想像されるだろうと思うのですが、萩原朔太郎の詩というのは、狂気の一歩手前という壮絶さがあるものなんです。すごいですよ。

フランスの詩人、シャルル・ボードレールの影響を強く受けていると言われるだけあって、病的とすら言える狂気的な感覚を、破壊力のある言葉で紡ぐ、そういう詩人。

なので、好きな人はとにかく好きで、一方、嫌いな人は全く受け付けないという、そういう極めて強い個性を持った人なんですね。ちなみにぼくは結構好きだったりします。

『月に吠える』や『青猫』など、代表的な詩集は色んな出版社から文庫で出ていますし、岩波文庫にはベスト版とも言える『萩原朔太郎詩集』が収録されています。機会があれば手に取ってみてください。

萩原朔太郎詩集 (岩波文庫)/岩波書店

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さて、『猫町 他十七篇』はそんな萩原朔太郎の、小説的な、短い作品を集めた作品集です。

短編が3編、散文詩が13編、随筆が2編の3部構成、全18編。詩人・小説家の清岡卓行の長い、そして丁寧な解説がついています。

解説では、「猫町」と、それより27年前に書かれた、やはり猫が現れる不思議な町を描いたアルジャーノン・ブラックウッドの短編「古き魔術」との類似が考察されていて、とても興味深かったです。

さて、「猫町」やその他の作品を読んでいて、ぼくが面白いなあと思わされてしまうのは、それが異世界へ行くファンタジーとは、全く違うという点にこそあります。

人間界/猫界とを行き来する話なのではなく(そういう風に読めないこともないですが)、頭がおかしくなって、幻想を見ているに過ぎない感じを非常に強く受けるんですね。

何か奇妙な物を見た話なのか、何か奇妙な物を見た”ような気がした”話なのか、別世界が存在するのか、それとも自分の頭の中にしかその世界はないのか、これは似ているようでかなり違いますよね。

幻想的な文学の面白さと言うのは、そうした狂気の一歩手前の感じにこそあって、普段見えないものが垣間見えてしまう怖さ、面白さがある、そういう一冊になっています。おすすめです。

作品のあらすじ


短編小説「猫町」「ウォーソン夫人の黒猫」「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」の3編。

「猫町」

幻想の世界への旅を夢見てモルヒネやコカインに溺れ、体を壊してしまった〈私〉。

健康のために散歩をするようになった〈私〉はある時、方角が分からなくなり、近所の町を見知らぬ場所に感じるという経験をしました。

それ以来、わざと道に迷って、幻想的な風景の中を歩くようになった〈私〉はやがて、北陸地方にあるKという温泉に行った時に、とても不思議なものを目にすることとなって・・・。

「ウォーソン夫人の黒猫」

博士だった夫を亡くしたウォーソン夫人は、学術研究会の調査部の図書の整理係をして暮らしています。

ある時、家に帰ると一匹の黒猫が入り込んでいました。戸締りはちゃんとしてあったはずなのに、一体どこからやって来たのだろうかとウォーソン夫人は不思議に思いました。

そこで、どこから入って来たか分かるように、床にチョークの粉をまいておきます。

ところが、帰宅するとまたしても黒猫は入り込んでいたのです。しかもチョークをまいた床には足跡一つ残っておらず・・・。

「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」

北国地方の貧しい農家に生まれ、陸軍工兵一等卒として日清戦争に出生した原田重吉。

平壌の戦場で、玄部門の爆破を任された重吉は、大きな手柄を立て、金鵄勲章をもらって故郷に帰ったのですが・・・。

散文詩「田舎の時計」「墓」「郵便局」「海」「自殺の恐ろしさ」「群衆の中に居て」「詩人の死ぬや悲し」「虫」「虚無の歌」「貸家札」「この手に限るよ」「坂」「大井町」の13編。

散文詩はとても短く、あらすじというほどのものはないので、全体的な印象について触れ、一編だけ取り上げようと思います。

みなさんもそれぞれ何かを目にした時に、何かしら感じると思うのですが、そんな風に物を見た時の印象をとらえた、スケッチのような作品群です。

たとえば「田舎の時計」では、昔と変わらぬ人々の暮らしがあり、まるで時が止まったかのようなその風景から、「田舎に於ては、すべての家家の時計が動いてゐない」(57ページ)と見ます。

一方、「群衆の中に居て」は都会の雑踏の中にいる、そのさみしい孤独の中にこそ故郷があるのだと言い、「海」では海の、「坂」では坂の、その向こう側には一体何があるのだろうと想像を働かせます。

「自殺の恐ろしさ」では自殺そのものよりも、自殺について考えることの恐ろしさを語り、「この手に限るよ」では、愛くるしい少女を紅茶にとかした角砂糖で口説く素敵な方法を空想の中で思いつきます。

ぼくが最も面白いと思い、また萩原朔太郎の特徴が出ていると思うのが「虫」です。これだけは少し詳しく紹介しましょう。

「虫」

或る日の午後、ふと耳にした「鉄筋コンクリート」という言葉が、「脳裏の中に意地わるくこびりついて」(72ページ)しまいました。そして、その意味がよくつかめないので苛々します。

電車の中で、「鉄筋コンクリート」について語り合っている人たちに、しどろもどろになりながら「鉄筋コンクリート」の形而上の意味を問いかけましたが、気味悪がられて逃げられてしまいました。

友達の家を訪ねた〈私〉が、「鉄筋コンクリート」の意味を尋ねると、友達は笑いながら答えました。

「そりや君。中の骨組を鉄筋にして、コンクリート建てにした家のことぢやないか。それが何うしたつてんだ。一体。」
「ちがふ。僕はそれを聞いてるのぢやないんだ。」
と、不平を色に現はして私が言った。
「それの意味なんだ。僕の聞くのはね。つまり、その……。その言葉の意味……表象……イメーヂ……。つまりその、言語のメタフイヂツクな暗号。寓意。その秘密。……解るね。つまりその、隠されたパズル。本当の意味なのだ。本当の意味なのだ。」
 この本当の意味と言ふ語に、私は特に力を入れて、幾度も幾度も繰返した。
 友はすつかり呆気に取られて、放心者のやうに口を開きながら、私の顔ばかり視つめて居た。(76~77ページ)


やがて〈私〉はついに「鉄筋コンクリート」の本当の意味を見つけて・・・。

というお話で、随分変な話、というかほとんど〈私〉が頭のおかしな人みたいな感じですが、この〈私〉の感覚がぼくは分からないでもないんですね。

みなさんもたとえば、夢を見ている時に、自分の知りあいが普段とは全く違う姿で現れたりしたことはありませんか?

”あの人だ”と分かっていながら、目の前にいるその姿があまりにも違い過ぎて、誰だか思い出せず、目の前の存在とそれが指し示している物にずれが生じている、そんな焦燥感を抱いた経験はありませんか?

多分この「虫」の中で描かれているのは、その時の感覚とよく似た感覚だろうと思います。こうした独特の感覚が描かれているのが、萩原朔太郎の作品の面白い所でしょう。

随筆「秋と漫歩」「老年と人生」の2編。

「秋と漫歩」

目的があって散歩するのではなく、ただうろうろしているだけだから「漫歩」、或いは瞑想にふけっているから「瞑歩」と呼ぶにふさわしいぶらぶら歩きをしている〈私〉。

 秋の日の晴れ渡った空を見ると、私の心に不思議なノスタルジアが起って来る。何処とも知れず、見知らぬ町へ旅をしてみたくなるのである。しかし前にいう通り、私は汽車の時間表を調べたり、荷物を造ったりすることが出来ないので、いつも旅への誘いが、心のイメージの中で消えてしまう。(102~103ページ)


そこで、近場の町に出かけていくことにして・・・。

「老年と人生」

30歳になった時に、「これでもう青春の日が終った思い、取り返しのつかない人生を浪費したという悔恨から、泣いても泣ききれない断腸悲嘆の思いをした」(104ページ)〈僕〉。

老いを嫌い、自殺を考えないでもありませんが、いつの間にか40を過ぎ、50歳を越えてしまいました。それでいてまだ生への執着を感じているのを、我ながら不思議に思っています。

若い頃に嫌っていたほど、老いは悪くないものだと思い、老年の楽しさについて考えていって・・・。

とまあそんな18編が収録されています。全体的に、「のすたるじあ」と言うのがこの本の大きなキーワードになっていると思います。

「のすたるじあ」を感じるというのはすなわち、目に見えない物に想いを馳せること。萩原朔太郎ならではの、不思議な感覚で世界が見つめられた、そんな作品集です。

鮮烈なイメージを持つ「猫町」もやはり面白いですが、散文詩もそれぞれになかなかよく、かなり夢中になって読まされてしまいました。

散文詩は確かに詩的な部分もありますが、適度に物語性もあるので、普段詩を読まない人でも楽しめるだろうと思います。

この本を読んで、萩原朔太郎に興味を持った方は、次はぜひ詩集に手を伸ばしてみてはいかがでしょうか。

明日は、小林多喜二『蟹工船・党生活者』を紹介する予定です。