第8回 贅沢な読書へ ーー濫読、精読、全集読み、あの翻訳をこえて | 文学どうでしょう

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立宮翔太の読書ブログです。
日々読んだ本を紹介しています。

〈本をめぐる冒険〉の第8回です。実はこれを書くのは結構しんどいんです。ブログの記事は大体前日に書いておくんですが、金曜日の夜は記事を書くのをサボって、近所の映画館にレイトショー観に行っちゃうことが多いんですよね。

そうすると、土曜日の分の記事は土曜日に書くことになり、日曜日には、日曜日の分の記事と月曜日の分の記事を書かないといけないのに加えて、このコラムを書かないといけないという、なんだかすごい時間キーボードを打ち続けなきゃならないわけです。

でもこのコラムはやってみてすごくよかったと思っています。本を読むというのは、自分1人の作業なので、他の人がどんな風に本を読んでいるのか、すごく気になっていたんです。でもあんまり聞けないですしね。「どこで本を読むのが好き?」なんて日常会話ではなかなかできないですよ。

さてさて、今回のテーマは少し変わっていて、「贅沢な読書とは?」というテーマです。読書の一歩その先へ。少し抽象的なテーマなので、コメントは書きづらいとは思いますが、記事を読んでもらってなにか思うことがあれば、気軽にコメントくださいな。

主に2つの「贅沢な読書」について考えてみます。それぞれ日本文学と世界文学へのアプローチと言ってもよいです。

まずは1つめは日本文学へのアプローチ。

ただ自分の好きな風に本を読んでいく。それはそれでもちろんいいんですが、ぼくは学生時代に大学の先生に言われた言葉が忘れられないんです。それは、「贅沢な読書」というものがあるという言葉。「贅沢な読書」とは一体どういうものだと思います? 少し考えてみてください。

いや、もうすぐ書いちゃいますけど、その先生曰く、「贅沢な読書とは、作家の全集を読むことであり、読書の最大の楽しみとは、全集で読みたい作家を見つけることだ」ということなんです。

どういうことかというと、読書が最終的に行きつくところは、1人の作者を深く読み込んでいくということだというわけです。夏目漱石なら夏目漱石の小説をすべて、評論も日記もすべて、読む。そうして夏目漱石とほとんど同化して、夏目漱石の考え方やものの見方で世界を見てみる。

そして一生かけて何度も何度も全集を読む。夏目漱石と一緒に人生を歩んでいく。これが「贅沢な読書」だというんです。

ぼくはこれを聞いた時、なるほど~と思いました。第7回でも多少触れましたが、ぼくは元々同じ作者の小説をずっと読んでいくことが多いので、考え方として、すごくしっくりくるんですね。

先生は若い世代に向けてそう教えてくれたわけで、もう少し分かりやすく言うと、「たくさん本を読みなさい」ということです。若い時は、濫読でいい。濫読というのは、手当り次第に本を読む読み方です。とにかくたくさん本を読んで、「おっ」と思ったもの、自分の中でヒットしたものをちゃんと溜め込んでおく。

とにかく広く浅くでも読書の領域を広げていって、全集で読みたいと思える作家を見つけたら、一生かけて、深く深く掘っていく。精読といって、すごく丁寧な読み方をしていくわけです。

どうですか、素敵な考え方だと思いませんか? そう考えることによって、ぼくは読書のアプローチが少し変わりました。

ぼくは2回目の大学時代は、『源氏物語』を研究していたんですが、そこで分かったことがあって、自分の立脚点をいかに作るかが大切だということです。

たとえば目の前に飛行機があるとしますよね。でも飛行機だけぽつんとあっても、それがどのくらいの大きさの飛行機なのかは分からない。もしかしたらすごく小さなプラモデルの飛行機かも知れない。でもその隣に車を置いたり、人が乗り降りしていたら、大体の大きさが分かります。

なにが言いたいかというとですね、日本古典文学の作品をすべて平均的に自分の中で取り込もうとしてもわりと難しいんです。でもたとえば『源氏物語』という自分の立脚点があると、『源氏物語』との比較から『平家物語』を見ることができて、『源氏物語』に影響を与えた作品、『源氏物語』が影響を与えた作品という風に、1つの視点から物事を見ていけるんです。これはすごく楽ですし、また重要なことだろうと思います。

同じように、1人の作者を読み込んでいく「贅沢な読書」では、濫読で色々なものを読むよりも、文学史的なものを理解しやすいですし、また作品を読む時も、他の作品との関連や作者の伝記的なことも分かるわけですから、より深く読んでいけるはずです。

この「贅沢な読書」は、人間関係でたとえるなら、たくさんの友人とつきあって、その中で一生を分かち合える親友を見つけていくという感じです。本を読まなければ、家で閉じこもっているのと同じで、人脈は広がらないし、人脈が広がらなければ、出会えるかもしれない大切な人と出会えないわけです。

ちなみにぼくが全集で読みたい作家は、とりあえずは、夏目漱石、武者小路実篤、正宗白鳥、吉行淳之介辺りです。特に正宗白鳥はぼくが一番好きといっても過言ではない作家なので、かなりこだわって読んでいきたいと思っています。正宗白鳥に関しては、ブログでまた扱う機会があると思います。

1つめはそうした全集読みという日本文学の「贅沢な読書」についてでした。

この先生は日本文学の先生なので、アプローチとしては、日本文学のアプローチになります。世界文学だとまた少し変わってきます。翻訳の問題が絡んでくるからです。全集がある作家だとしても、翻訳というものを通してしか読むことができないので、そこに微妙な問題があります。

2つめの「贅沢な読書」は、主に世界文学に関してです。

このブログでよく取り上げて読んでいるのは光文社古典新訳文庫ですよね。それには理由があって、光文社古典新訳文庫の翻訳がよいから、というわけでは必ずしもないんです。ぼくの学生時代に光文社古典新訳文庫というのはなかったので、多くの作品を新潮文庫や岩波文庫で読んでいました。同じ本で読み直すよりは、ということで選んでいる部分が大きいです。

翻訳というのは難しい問題を孕んでいて、このコラムで翻訳のよしあしについて論じているスペースはないですが、軽く触れておきますね。大別して、逐語訳と意訳の2パターンに分かれます。どういうことかというと、原文に忠実ということに重きをおくか、読みやすさに重きをおくかということです。

逐語訳は、原文に忠実であろうとして、時に日本語として読みづらい文章になります。意訳は読みやすいですが、程度は様々だと思いますが、原文からは少し離れることもあります。たとえば韻文といって詩の形式のものを散文といって小説の形式にしてしまったり。

ぼくがこの問題を真剣に考え出したのは、やはり『源氏物語』と取り組みだしてからです。『源氏物語』にも原文と口語訳という、いわゆる一種の翻訳があります。この原文と口語訳の差というのはかなり大きいと感覚的に分かってしまったんです。

当然ながら千年前の『源氏物語』の原文を読んでいる人はそういなくて、多くは口語訳で、時にはマンガやダイジェスト版を通して『源氏物語』は語られるんですが、そこに言葉にできない差みたいのを感じてしまったんですね。

その差についてもここではあまり書きませんが、その差というのは、世界文学の原文と翻訳との間にもきっとあるだろうと思うんです。もちろん英語で書かれた小説を英語で読んだからといって、理解が深まるかといえば、そうでもないはずです。

つまり、歴史的、文化的なものへの理解、あるいはそれはその国に住んでいなければ分からないもっと感覚的なものかもしれませんが、そういったものがなければ、言語だけ取り込んでも、きっとダメなんだろうとは思います。

でもそれでも、翻訳のよしあしを論じたり、あるいはいい翻訳がないと嘆くよりは、その言語に直接アプローチする方が、よりベターかなあという気がどうしてもしてしまうんです。なにより楽しいですし。

つきつめて考えれば、ぼくが言語が好き、活字が好き、ということに集約していくとは思うんですが、ぼくが思う「贅沢な読書」とは、英語のものは英語で、ドイツ語のものはドイツ語で、フランス語のものはフランス語で、原典に沿って読んでいくことだろうと思っています。

夢ですねえ、各国語での読書。わくわくします。

というわけで、日本文学の「贅沢な読書」としては、全集読みというアプローチ。世界文学の「贅沢な読書」としては、翻訳をこえて原文で読んでみるということになります。

翻訳をこえることに関しては、「世界文学を原書で読みたい倶楽部」というグルっぽも作ったので、気軽に参加してみてください。世界文学に興味がある、語学に興味がある、というだけでも大丈夫です。


語学の勉強法というか、ぼく自身の語学へのアプローチについて番外編で少し書きました。語学に興味のある方はなにかの参考にしてみてください。こちら→番外編1 語学の扉をノックする

みなさんの考える「贅沢な読書」というのは、一体どういうものでしょうか。ちょっと漠然としたテーマになってしまったので、コメントはしづらいとは思いますが、もしなにかあればお気軽にどうぞ。

次回は、「映画化された本、読んでから観る? 観てから読む? ーービジュアル化とは、小説の可能性」です。また日曜日のお昼頃に更新する予定なので、お楽しみに。


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