こんばんわぁー(^O^)/ お久しぶりです。
クラシカル奏者は、あまり吹かない…、ジャズ奏者も殆んど吹かない?て言うか、ラリー・アドラー大先生以外はたぶん吹いてない?
名曲 Rhapsody In Blue 話をちょこっと載せます。
序奏
ジョージ・ガーシュインは、ロシア系ユダヤ人移民の子として1898年ニューヨークのブルックリン郊外に生まれました。兄弟は4人、ジョージは2番目で兄のアイラは後に作詞家としてジョージと組み、「ポーギとベス」の詞を書くことになります。
子供の頃のジョージは、腕白で不良少年のリーダー格として父親が見放すほどでした。両親は音楽の素養は全くありませんでしたが、ジョージは不思議と音楽好きの友人に恵まれ、友人の家のピアノを弾いたりしているうちに自然に音楽に関心が向くようになってきました。
15歳になったジョージは、楽譜屋や出版社が軒を連ねていたティンパンアレイ(ブリキ鍋小路)のリミック社の専属ピアニストとして、出版されたばかりの新曲のデモ演奏を、店を訪れるプロやアマチュア音楽家たちに聞かせることになります。
やがてティンパンアレイで新曲を弾いているうちに、自分もラグタイム風のピアノ曲や流行歌を作曲していくようになり、1917年にリミック社を辞めた後にはフリーとして、劇場用の曲を書き始め、コンスタントなヒットを飛ばしていきます。やがて1919年の「スワニー」の大ヒットで、ブロードウエイの作曲家として認められることになります。
時代
ガーシュインが活躍していた20年代は、シカゴでは、禁酒法下、アル・カポネに代表されるギャングが跳梁し、ニューヨークではベーブ・ルースが活躍していた、アメリカがまさに繁栄の絶頂にあった時代です。」
この繁栄の20年代にバンドを組織し、自ら「ジャズ王」
と名乗っていた人物がいました。その名はポール・ホワイトマン。クラシック音楽の教育を受け、ヴィオラ奏者としてデンバー交響楽団とサンフランシスコ交響楽団にも在籍したことのあるホワイトマンは、非常な酒好きで、頻繁に出入りしていたダンスホールで触れたジャズに次第に興味を持ち始めます。やがてジャズプレーヤーの週給がクラシックのプレーヤーよりもはるかに高額だということを知ったホワイトマンは、ジャズプレーヤーとして演奏活動を始めました。
19世紀のクラシック音楽のテクニックを使えば、ジャズがより高度で芸術的なものになると信じていたホワイトマンは、1924年2月に「アメリカ音楽とは何か」という実験的なコンサートを計画しました。内容は、当時流行していたジャズやポピュラーソング、ミュージカルナンバーからクラシックまでを演奏し、真のアメリカ音楽とは何かを審査員に選ばせるといったユニークなものでした。
作曲
このコンサートに先立つ1ケ月前、このホワイトマンのコンサートのためにガーシュインが新たに「ピアノ協奏曲」を作曲中という新聞広告が、ガーシュイン本人が知らぬままに出てしまいます。そのような約束をした覚えのないガーシュインでしたが、結局ホワイトマンに押し切られて作曲をするはめになってしまいました。
なにせ正規の音楽教育を受けたのが14歳からで、オーケストラの作曲などの経験がないガーシュインは途方にくれるばかりでしたが、楽想の迸るままとにかく三週間で2台のピアノのための形で草稿を書き上げます。
これを1ページ出来あがる端から、ガーシュインの家に泊り込みの状態だったグローフェがオーケストレーションを進めるといった、かなり慌しい形となりました。
初演
演奏会当日は、ラフマニノフ、ストラヴィンスキー、スーザといった歴史上の大作曲家やハイフェッツ、ストコフスキーといった一流の演奏家たちが顔を揃えるといった大変な盛況となりましたが、演奏曲目が実に24曲と膨大なうえに曲目も変化に欠けていたために聴衆はかなりの苦痛を強いられていたようです。居眠りや途中で帰る客も目立ち始め、聴衆の苦痛が限界に達しようとした時に、最後から2番目の曲「ラプソディー・イン・ブルー」が演奏されました。(トリはエルガーの威風堂々)
この時の「成功の模様」
はあまりにも有名ですが、とにかく完全に失敗に終わりそうなホワイトマンの実験的なコンサートは、ガーシュインの1曲のために歴史的なコンサートとなり、4月には全く同じプログラムで、カーネギーホールでも開かれました。1924年だけでホワイトマンバンドは、「ラプソディー・イン・ブルー」を84回演奏したとの記録が残っています。
以上、「ラプソディー・イン・ブルー」を聴く
から抜粋しました。![]()
Great Larry Adler -Original Recordings Vol.1 1934-1947
■ガーシュイン自身の初録音(1924.6.10)が聴けます。78 RPMs
Rhapsody In Blue Part 1 (1924)
Paul Whiteman and George Gershwin
このCD(SP復刻)には、1934年から翌年にかけ、アドラーが20歳と21歳時のものから7曲、そして、1937年から47年までのアメリカ録音が収められている。アドラーは、ラプソディーを数回録音してる。
(オーケストラ伴奏は、1935-1953-1994(80歳記念)等。ガーシュインのピアノロールをバックにしての演奏もある)
ではまた。 たまぁーに見てくださいね。
