早朝、ふと目を覚ます。寝ぼけ眼でうっすらと見た窓越しの空は、まだまだ青暗い。陽はまだ登っていないらしい。それ故に部屋の中も暗く、僅かに射し込む月明かりによって、ほんの少しだけ青く照らされている程度だった。こんな時間に目が覚めてしまうと、再び眠りにつけるかどうか、少し怪しいところだ。

しかし、そんな事よりも、どんな事よりも重大な事が起きていた。


寒い。とにかく寒い。


季節は冬。冷えるのは当然なのだが、この寒さは少しおかしい気がする。昨日までは肌寒い程度で済んでいた筈だが。


「寒……え……どこか閉め忘れたかな……」


隙間風だとか底冷えだとか、そんな次元の寒さではない。

つい数秒前まで眠りについていた体をゆっくりと起こし、周りを確認する。

部屋の中心に用意された二組の布団。片方には俺が。もう片方には式神である香奈が寝て…………いない。


「……香奈?」


いない。いるはずの者が影も形もない。だが、消えたとか襲われたとか、そんな物騒な理由でない事はすぐに理解した。なにしろ布団は整えられておらず、起きてそのままにしている様子だったからだ。


「あいつまさか……」


部屋を仕切る襖の方に視線を向けると、そこには開けっ放しにされている襖があった。月明かりを頼りに目を凝らす。どうやらご丁寧なことに、全開で開けられているらしい。


「あぁ……やっぱり。閉めずに出やがったな……」


温まった布団から出るのも億劫だが、なんとか踏ん切りをつけて立ち上がる。薄暗い部屋の畳を一歩、また一歩と進める度に、足先から熱が奪われていく。早く布団に戻りたいという気持ちを抑え、襖に手をかけた時、気になる音が耳に入り込んだ。どうも陶器同士が当たったような、澄み切った甲高い独特な音だったように思える。音の出所はおそらく居間だろう。


「……あいつ何してんだ」


正確な時間はわからないが、おそらく午前二時……ぐらいだと思われる。そんな時刻に何をしているのだろうか。まあ、想像はつくのだが……

ゆっくりと足音を出さないよう、静かに足を運び、寝室を出る。居間と寝室は壁で仕切られているだけで隣な為、部屋から少し顔を出すだけで居間の襖は視界に入るようになっている。隣の部屋の様子をそっと確認するが、襖の隙間から細い光がまっすぐに伸びていた。部屋に誰かいるのは間違いないとして、どうやら襖はしっかり閉められているらしい。そっちは閉めているのにどうして寝室は閉めてないんだ。

一歩、また一歩と進み、部屋の前までやってきた。襖に手をかけ、ゆっくりと居間へと入った。


「……ん、わああああ!!!?!!?修一さん!!?!!??!?」

「ビビりすぎだろ……起きるのはいいけど、襖は閉めてくれよ……寒すぎて目が覚めたっての……」

「あ、あはは……………………すみません」

「まあいいんだけどさ……というか、何してんの。晩酌?」


視界に入った香奈は、炬燵に入って暖をとりながら、徳利を置いて酒を飲んでいた。


「えへへ……いやぁ、今日なんだか異様に寒いじゃないですか。だからこそ、熱燗が美味しいよなぁと思って、飲んでたんです。明日は何もないですし」


どうやら寒さを活かした晩酌らしい。日本酒のいい香りがこの部屋に広がっていることから、飲み始めて間もない、とは言い切れなさそうだ。


「確かに明日は何もないな……よし、俺も付き合うよ。目も覚めちゃったしな」

「お、珍しい。じゃあ用意しますよ」

「いいの?ありがとう」

「起こしてしまったお詫びでもありますから、気にしないでください」


と、笑顔を向けながら、彼女は席を立ち、台所へと向っていった。

それを見届けた後、炬燵の中に足を入れる。さっきまで冷え切っていた足が暖められていくのが堪らなく心地よい。さっきまで冷え切って感覚が鈍っていたが、それが戻ってきていた。その熱は足から腰に伝わり、そこからさらに胴体にまで伝わってくる。その心地よさにウトウトし始めたころ、彼女が戻ってきた。


「お待たせしました、どうぞどうぞ」


そう言って徳利を二つ、机の上に置く。現状この机には三本の徳利が存在していることになる。なぜ二人しか住んでいないのに三本あるのか、だって?大丈夫、まだ何本もある。こんな程度で驚いていては香奈と暮らせない。

向かい合った場所に彼女は腰を下ろし、二人で炬燵を挟み込むような状態になった。


「修一さんはお酒が苦手ですから、人肌より暖かい程度にしてます」

「え、香奈と同じものでよかったのに」

「いいえ、よくありません。あなたはきっと飲めません。熱燗の温度までくると、辛口になっちゃうんですよ。苦手な人は本当に飲めないと思います。なので、少し暖かい程度の方がいいんです。香りも良いですし」

「はー……なるほどな……酒は全然わからないから助かるよ」

「いえいえ。私は修一さんと飲めて嬉しいですから」


暖めてくれた日本酒をお猪口に注ぐ。トクトクと、音を立てて少しずつ、少しずつ注いでいくが、その時点で良い香りが漂っていた。彼女の言う通り酒は苦手なのだが、この香りは好きだ。


「……先に一つだけ伝えておきます」

「何?改まって」

「日本酒というのは、温める事で酔いが回りやすくなります。まずいと思ったら切り上げてもらっても構いませんからね?」

「そういうことか。忠告ありがとう」


俺は酒に弱いが、かといって嫌いというわけではない。だからこうして飲もうとしているわけなのだが。しかし酔いやすいときたか……どの程度なのかもわからないし、飲んでみないことには始まらないだろう。


「では、乾杯しましょう」

「おう、乾杯」


カチ、と乾いた音を響かせたお猪口を口元に持ってくる。


「息を止めて飲んでみてください。そうする事で、飲む時の強い香りを避けつつ、飲み終えた時に体から抜ける香りを楽しめます」

「へぇ……やってみる」


息を止めて中に入っている暖かい液体を口に含み、そのまま喉の奥へと流し込む。途端に喉元がカッカと熱くなるのがわかった。口から喉、食道、そして胃……その全てが熱を持ったようにさえ思える。そして鼻から抜ける香りはまるで果物のように甘く感じられる。思わず、ほぅ……と息が漏れるが、それ自体が異様に暖かく、まるで体の中で暖をとっているような気分にさせられた。寝起きも相まってなのか、非常に気分が良い。このままここで寝てしまいたい気分だ。どこか体が軽くなったようにふわふわとしている、とにかく心地良い。


「修一さん、まだお猪口一杯どころか一口ですよ。顔、顔。赤くなってきてますよ」

「はは、まあ酒には弱いからな……大丈夫、そんなグイグイ飲むわけじゃないし。それに足も温まってきたから、きっとそれもあるよ」

「なるほど……なら大丈夫ですかね……」

「うん、大丈夫。それより美味しいよ、ありがとう。すごく飲みやすい。香りもいいし、何より辛さがかなり抑えられてる。角が取れて丸くなった……って言えばいいのかな」

「おおー、わかってますね。熱燗……修一さんに用意したものは厳密には違いますが、それは香りを楽しむのも醍醐味です。それを分かち合えて私今、すごく嬉しいです」


実際、こんなに美味しいと思ったことはない。香りもこんなに甘いとは思わなかった。これって米から作られてるんだよな、米の香りってこんなに果物みたいになるのか?本当こう、砂糖煮詰めましたって言われても違和感ないというか……


「それにしても、夜籟さんが用意してくださったこの炬燵、便利ですね本当に」

「だな。電気もガスもない代わりに、こっちには魔法があるんだ。この話をあいつに持ちかけて正解だったよ」


この炬燵には、机の裏側に魔法陣を描いている。対象となる者が近くに来た段階でそれは発動するようになっており、炬燵内の空間の気温を一定にして固定するように出来ている。その力の素は対象者の持つ魔力となっているが、規模が規模なため、本当にごく僅かしか消費しない。恐らく言われなければ気づかないだろう。

熱の魔法と、それを制御する魔法陣は俺には組めない。だから、その魔法が扱える夜籟と共同で完成させた。応用すれば部屋の気温も上げられるが、部屋の見た目が悪くなるし、年中魔力を吸われるのは流石に迷惑だということで廃案となった。


「熱源を用意して温めるのではなく、この炬燵内の空間の温度を上げているというのが、ポイント高いですよ。それってつまり、究極のところ、布団がなくても暖かいってことじゃないですか」

「そういうこと。でもやっぱこれがないと味気ないよな。こいつは絶対に外せない……」

「……炬燵もそうですが、家も本当に良かったです」

「本当にな……慧音さんには世話になったよ。どう恩返ししたらいいかねぇ」


今住んでいるこの家は、もともとあった家を刀夜に消された後、その跡地に再び建てたものだ。もちろん最初の家は能力を使って建てていた以上、この世界の建築材では到底賄えない代物が多々あった為、全く新しい家となっている。建築費用に関しては、村を何度か守った事もある為、これからも守ってくれ……なんて理由で払う必要がなくなってしまった。その話の背後に慧音さんがいたと知ったのは、その話がまとまった直後だった。

慧音さん曰く『私が絡んでいると知れば、きっとこれ以上迷惑はかけられない、なんて言い出して事をややこしくしてしまうだろう?だから話がまとまるまで私の名前は一切出さないようにしてもらっていた訳だ。騙したようで悪いが、これも君たちのためを思っての事なんだ。どうか理解してくれ』ということだった。

……もう、本当、慧音さんって神様か何かかもしれない。妹紅が大切にする理由もわかる。わかりすぎる。こんないい人滅多にいないよ。


「昔ながらの平家、元の敷地がそもそも広かったのも相まって、それなりの広さになっていますし」

「二人で住むには少し広いぐらいだからな……まあ、職業柄広い方が助かるよ」

「相談を聞いたりとか、子供のお預かりとか、そういう時は本当に助かりますね」

「そんな我が家だけど、本当にありがたい話だよ。人ってあたたかいんだな、マジで」

「そうですね……いろんな人がいて、いろんな妖怪もいて、いろんな妖精……神様まで……」

「みんな一癖も二癖もあるけど、今となってはここに来て良かったと思えるよ」

「……帰ったら逆にややこしいですからね」

「そうなんだよな……」


以前外に行った時……厳密には、紫を経由して一日だけ外出したというだけなのだが、その日に限って父親に再会。しかも敵対組織とバチバチに喧嘩しているその最中に。その場は乗り切ったが、もう経験したくない。めんどくさすぎて。


「そういえばですね、私、お酒をさらに楽しむ方法を見つけてしまったんですよ」

「ほう。というと?」

「これです」


そう言って懐から取り出したのは一枚の札だった。これは香奈の体や服に貼り付けてある、魂を定着させるために必要なものだ。それをヒラヒラとさせながら見せつけてくる。


「前に仰ってたと思うのですが、これを貼れば貼るほど感覚が研ぎ澄まされるって話じゃないですか」

「そうだけど……ん?まさか酒のために増やしてる?」

「はい!これを一枚足すだけで、もう、全然違うんですよ。味がより鮮明にわかりますし、香りも抜群によくなるんです!普段の倍以上は良くなりますね。そしてまた都合がいいことに、嫌な味とか香りは増えたように感じないんですよ。もう、気付いた時はびっくりしました!」

「正しい使い方……ではある……のか?まあ、死ななかったら大丈夫か……」

「難点は……冬にやるとちょっと寒くなるってことですかね……」


香奈の札は増えれば増える程に感覚が研ぎ澄まされる。つまり、通常の人間以上の五感を得られるということになる。普段は枚数を抑えて、人並み程度にしてあるが、本人、あるいは俺の判断で増減させたりする訳なのだが、酒を飲むためにそんなことをしていたとは露程も知らなかった。


「もちろん起きたら普段の枚数に戻していますから安心してください」

「わかった。まあ香奈がいいならいいんじゃないかな。ただまあ、過剰に増やしてぶっ倒れたりして、そのまま帰ってこないとかはやめろよ。そうなったら蘇生不可だし、何より辛すぎる」


感覚を研ぎ澄ませられることのデメリット……それは、死亡時に魂ごと消滅するリスクがあるということ。通常時に死亡したとしても、魂は消えない為、同一人物を再び召喚できるが、それが消えてしまってはもう二度と召喚はできなくなる。それを阻止する為にも、貼りすぎは絶対に避けるようにしてもらっていた。


「そりゃそうですよ。こんなに可愛い香奈ちゃんが居なくなったら、誰だって辛くなります」

「自分で言うな。でも、お前が初めて死んだ時……俺、マジで歯止め効かなくなったんだからな。間違っても完全消滅なんてしてくれるなよ。俺もそうだし、霊夢や魔理沙、妹紅に萃香……数えきれないほどの人が悲しむからな」

「……正直、それだけ想われているというのは、すごく嬉しいです。その想いを無碍にしないよう、自分は大切にします」

「そうだな、頼むよ」


そんな会話をしながら、一口、また一口と酒を飲む。香奈は既に酒が入っていたからか、これといった変化は見られなかった。


「あー……酒飲んでるって感じ、久しぶりだな……ふわふわする……」

「ふふふ、酔った時の修一さん、普段見られないから結構好きなんですよね、私」

「確かに、家でも外でも自分からは飲まないからな……うーん……なあ、食べ物なんかあったっけ。みかんとかあった気がするんだけど」

「ありますよー、どうぞ」

「ありがと」


そう言って、香奈は自分の背後にあったらしい籠を炬燵の上に置く。どうやら俺が部屋に入った時から死角になる場所に置いてあったらしい。

このみかんは仕事中の差し入れに頂いたものだった。確か子守の時だったかな……

その中で少し小ぶりなものを選び、指を差し込んで皮を破る。そこから周りをゆっくりと剥いていく。


「みかんの皮ってさ……千切らずに剥きたいよな」

「急に何の話ですか……」

「みかんの白い筋って取る派?食べる派?」

「食べる派です」

「そうなんだ……」


目が虚になっているのが自覚できる。こんな会話をしながらみかんの皮を剥いてはいるが、確実に酔いが回ってきている。これ食べたら大人しく寝るとするか……


「……みかんって、緑から黄色になるよね」

「そうですね」

「……うん、美味い」

「私も食べよっと」

「甘いのと酸っぱいの、どっち派?」

「強いて言えば甘い派ですかね。でも酸っぱいのも──」

「俺酸っぱい派」


そう言いながらみかんを口に放り込む。噛んだ途端、甘味と酸味が混ざり合った果汁が口中に広がる。これは甘味の方が強く出ているらしい。酸っぱい派とは言ったが、これはこれで美味しい。


「どれどれ私も……おお、これは美味しい……」

「美味いね」

「この時期はやはり、炬燵とみかんですね」

「だなー……うん、美味い」

「あ、皮は捨てずに置いててください」

「食べるの?」

「いくら私でもそこまでは……乾燥させて、お風呂に入れるんです。いわば入浴剤ですね。本当は皮が分厚い柑橘類でするのがいいんですけど、みかんでも同じことができるんですよ。数がいるのですけど、籠いっぱいに頂いた訳ですから、問題ありません」

「へー……よくわかんないけど置いとく。にしてもみかんって………………みかんだな」

「……酔ってるなぁ」

「酔ってなーい」













「……んー」


ふと、目が覚める。寝た記憶は一切ないのに、なぜ目が覚めたのだろう。それに、今自分は布団にいる。いつ戻ったのだろうか。予想はつくが、酔ってそのまま倒れ、香奈が運んでくれたのだろう。

香奈がいるはずの布団に頭をむけると、そこには静かに寝息を立てて寝ている彼女の姿があった。


「……ありがと」


ふと見上げた窓の外は、淡い青が広がっていた。日が昇って間もないということらしい。

今日は何もすることがないし、もう少し寝てもバチは当たらないだろう。

そう自分言い聞かせ、再び眠りに就いた。