先週の晴れた日、弟が冬タイヤ交換に帰ってきました。
もうそんな時期なのかと。
11月は寂しくて苦手です。昔から。
秋も深まった霜月の夜、孤独を全く感じることなく生きてきた人はいないでしょうけれど。
この一年、一人でいたせいで色々なことを思い出しました。
生きて行く力になる喜ばしいこともあれば、有難くないことも沢山。
そうそう人生うまい具合には行きませんって。ねえ。
なかなか出掛けられないせいもあって、昔読んだ本を見返したりしてます。
小説類の殆どは処分してしまいましたが、三浦綾子さんや曽野綾子さんは別。
著作を通して、私に生き方の指針を与えてくれた人達ですから。
そういった昔読んだ本や、「鬼滅」等の最近のものを通して、改めて自分が何を好きだったのか、本当はどうしたかったのか等々を、嫌でも振り返ることにもなってしまいました。
こういう作業、いきなり意図せずやってくるから困ります。
メンタルがやられる。
私、一つ前の記事に書いた「鬼滅」最終話のモノローグで、自分の醜さに気付かされました。
『自分のことが不幸だなんて 思ったことは一度もない』
いやぁ…。
電子書籍の時も胸が詰まりましたが、紙になるとより一層こたえます。つらい。
幸せじゃなかったわけではありません。
人並みの幸せは一応それなりにあったでしょう。
でも。
でも。
不幸だと思ったこと、あります。何度も。
思うように行かなかったからではなく。そうではなく。
自分の思う通りに物事が運ばないのは当然だから、それは受け入れられるものなんですよね、意外と。子供でも。
でも、本当はしたかったことを出来なかった、やらせてもらえなかったことの後悔、自分で選ぶことが出来なくなったことの悔しさと虚しさは、なかなか消えません。
自分ではどうしようもなくなって、周りに従うしかなくなったその当時、今は嫌で辛くても年を取ったらきっと懐かしく思うのだろう、頑張ってきたと思えるようになるんだろう、と考えてやり過ごしてきました。…全然でした。
却って、年を取れば取るほどつらくなる。
というか、つらさに気付く。
誤魔化してきたんだなあ…と。
まあ、とてもじゃないけど誤魔化さなきゃ日々を送れないというのはあって。
どうにも仕方なくて。
やり直せないんですよね、簡単には。
「人生いつでもやり直せる!」と言える人って凄いなと、素直に思いますもん。
そうでも思わなきゃやってられない、というのもありますけど。
皆、多かれ少なかれ、そういう気持ちを抱えながら生きてるんですよねえ。
分かってます、幾ら私がぼんやりでも。
友達の一人が、また鬱気が強くなって。
昔ほど酷くないので大丈夫とのことでしたが。
ギリギリだった昔を基準として考えて良いのか?という疑問も。
今からでも大丈夫!と明るく考えるには、体力と財力と気力が不可欠。
そのどれもが乏しい私めには、非常に困難な道のりで。
と、愚痴ってばかりいても始まらないのですが、今まで「不幸」だと思ったことがあるのは事実なので消せないけれど、せめて今からは、そう思わないようにしたいものですねえ。
明らかに悲しみが多かったであろうキャラクターに、あんな台詞を言わせてしまう吾峠先生。頭が下がります。
『本当につらいことは 雪崩のように 一瞬で人を飲み込み 何も選ばせてはくれない』
この台詞も、恐ろしく正しいですね。
「一瞬」の定義を、自分勝手に多少変えてしまっても構わない気がします。
雪崩や津波や地震ほど酷くないけど、選ばせてもらえないことって冗談じゃなくあるんですよ。そういう時ってホント時間もない。一瞬とまではいかなくても、当人にはあっという間。
逃げる暇もない災害ほど大きなことではないから、誰にも言えない。
本人にとっては大きなことでも、周りからしたら小さなことだから。
そういった傷って残ってますねー。
この年になって気付いて魂消てます。
やり直せることではないので、断捨離をするような気分で、気持ちに整理をつけながら片を付けて行きたいと思ってます。
母の冬用の草履。
去年、履くかもしれないと思って取っておきましたが、やっぱり古いので怖くて処分。歩いている途中で、劣化した部分がボロボロとこぼれたりしたら目も当てられませんから。
義妹の家ではキモノを着る人がいなかったため、こういう草履も特に見たことがないそう。雪が降る地域だと、こういう草履は妙に中途半端ではあります。
母は華道の集まりで出掛ける時(お正月とか)に、履いていただけのような。
冬草履、茶道や華道なら必要でしょうけれど、今からの時代、もう行き来はカジュアルに砕けてブーツで良いんじゃないかい?と思ってしまう、昭和生まれの50代でありました。
不幸だなんて、不幸だったなんて、思わずにいられる自分になって行きたいです。
お読みいただき、ありがとうございます。