秋に一人でいるのは良くないな…と思いながら過ごしています。
春は花粉症のため自ずと行動が制限され、夏は単純に暑さに負け、冬は冷えて筋肉も関節も動きが悪くて怪我をしがちだったり。一番活動的な秋なのに、今年も去年も寂しいです。
去年の今頃は、毎日病院に通っていました。
脳挫傷で入院した母は私のことが娘だと分からず、妹、介護所のヘルパーさん、市の職員、地区の民生委員、病院の職員(医師と看護婦ではないけれど病院の人)等々、その日その日で色んな人に。
淋しかったけれど、私が一人で行った時は、母の話に合わせて聞いていました。
弟が一緒だと、そういう母に私を思い出させようと躍起となっていましたが、何故か私はなすがままで構わなくて。
実家を離れた申し訳なさによるものだという自覚がありました。母に思ったままを言うことが出来る、脳を損傷していても甘えることが出来る弟を、羨ましくも思いました。
結局のところ、母とは心底から打ち解けることは出来てなかったのかもしれないな…と、母が聞いたら嘆き悲しむに決まっていることを、親不孝な娘は思っています。秋のせいです。
母は母なりに、存分に私に愛情を傾けてくれましたから、それで十分。
趣味が異なるというのか、タイミングが悪いというのか、気にする箇所が余りにも違っていて。
大きな出来事になればなるほど擦れ違いも酷くなり、女親ならもう少し分かってくれても良さそうなものなのに、どうして?と嘆いたものでした。
そもそも母は弟の方が断然相性が良くて可愛がりやすかったのだと、自分が子供を産んで育ててみて初めて気付きました。
母が一生懸命だったのは子供心に分かっていました。私とは相性が今一つだったのだから仕方なかったのだと諦め、母の良いところに目を向けられるようになったのは30代。
アダルトチルドレン関連の本を読み漁ったのも、その頃。30代前半から後半にかけて。
中でも、「永遠の仔」は、今でも受けた衝撃を忘れていません。
小説なのだからフィクションなのだけれども、それは十分に分かっているのだけれども、それでも何でも、登場人物の傷が少しでも癒されますようにと願わずにいられませんでした。
これはもう、タイミングの為せるわざ。
たぶん、読んだ時期が早くても遅くても、あの感動は無かったことでしょう。
「永遠の仔」の前に、心に傷を負った子供に関する解説書や簡単な医療関連書、小説等を何冊も読んでいたので、登場人物たちの痛みが手に取るように分かったというのもあり。
そして逆に、もっと後、例えば40代もとうに過ぎていたなら、自分のこととして感じ取ることは出来なかっただろうとも思うんです。冷静さが勝(まさ)っただろうなと。
初めて、小説の中の登場人物に強く思いを寄せ、その人の幸福を願ったのは、中1の時に読んだ「ああ無情」でした。今だとそのまま「レ・ミゼラブル」ですね。
小学生のうちに読んだ人もいるでしょうが、私にはあの年がベストでした。3月下旬生まれという、子供のうちは到底追いつけない生まれ月の差も考慮してもらえれば有難いです。
不思議ですよね、物語って。存在していない架空の人の話なのに、まるでそこに生きているかのように感じる。哀しければ一緒に涙を流し、辛ければ一緒に歯を食いしばり…。
勿論、小学生の頃でも感激した物語はありました。「ベルばら」が良い例で。オスカルさまに憧れたものでしたし、フランス革命の流れを知ることが出来ました。
でも、そこ止まり。年齢がもう少し上だったら、違っていたのかな?とも思います。
今回、この年になって50代半ばを過ぎて、マンガの登場人物の幸せを願うことになろうとは。自分でもビックリでした。
感動したマンガは、それまでにも沢山あったんですけど、そこからもう一歩踏み込んだ位置にあるんですよね。物語に入り込むというのは。
言うまでもなく、「鬼滅の刃」です。感動、とはちょっと違う。沢山泣かされましたから、その度に心が震えているのは確かなんですが。でも、素直な感動とは微妙に異なる不思議。
最終話205話の一つ手前、204話の最後の方のシーン。
天元様と3人の嫁達が、野原に寝そべって笑い合っていて。
煉獄さんの父・槇寿郎さんと弟・千寿郎くんが、おそらく家の近くを二人で仲良く歩いていて。
実弥は着物に袴姿、もう胸を広げて血を流す必要はなく。たぶん自分の生まれた街の辺りに戻り、憑き物が落ちたトゲの無い表情で上を向き、闊歩しているようで。
義勇さんは桜並木の中、それまで見せたことのない優しい笑顔で。もう。
私、電子書籍で読んでいたんですけど、23巻コミックを買いましたよ。(苦笑)
この頁と、205話の「義勇さんと実弥が一緒に鰻重を食べてる」カットと、「お館様と妹二人が紙風船か手毬で遊んでいる」カット、あと『生まれてくることが出来て幸せでした』から始まる、最後の一人一人のモノローグのところが、どうしても紙で欲しくなって。
特に、玄弥と無一郎くんと実弥の頁。玄弥の笑顔、無一郎くんの微笑み、アクが抜けた実弥のイケメンっぷりと、表情も突出して良いのですが、言葉の一つ一つ全てがツボ。
マンガなのに、何を願ったって仕方ないのに、生き残った人達がこれからどうか幸せに暮らせますように、と祈ってしまってとまりませんでした。切なくて切なくて。
これが、物語の持つ力なんだなあ…と思いました。思わされました。
以前書いた通り、2度ほど主人公とソリが合わず?「鬼滅」から戦線離脱した私め。その2度とも、義妹のアラサー同僚が恋してしまった「煉獄さん」に連れ戻してもらいました。
煉獄さんありがとうですよ。さすが400億の漢。
冗談はともかく。これも「今」だったからで。ちょっと前までなら、ここまで深く思いを至らせることは私には不可能でした。というより、拒否したと思います。
色々あって。
今は、いっぱい泣かせてくれたことに感謝。素敵な言葉をもらえたことにも感謝。
『胸を張ってください あなたと出会えたことが何よりの幸運 そして幸福だった』
『あなたの存在が私を救い 孤独も全て蹴散らした』
『幸せは長さではない 見て欲しい 私のこの幸せの深さを』
『自分のことが不幸だなんて 思ったことは一度もない』
まだまだ沢山ありますが、この台詞を読んだ若い人達が、心の隅にでもいいので留め置き、知らず知らずのうちにでも何でも、糧としてくれることを本気で願います。
言葉には言霊が宿り。そして言葉が紡ぐ物語には力があり。
私の弱っちい精神では受け入れ難かったのに無理した傷が露わになってしまったり、更年期の不安定さと年齢も手伝って、感動することを拒んでいた面があったんです。
そこの壁が少し崩された、一つの物語との出会いでした。感謝。
お読みいただき、ありがとうございます。