先週は蕾だった菊が予想通り咲き始めたので、墓参に持って行きました。
その肝心の菊なんですが。手入れの仕方が分からなかったものだから、いつもの見慣れた姿とは異なり、広がってしまって束にするのが大変。
義妹と頑張って少しでもマシに見えるものを探し、どうにかまとめようと工夫しても手に負えるはずもなく。諦めて「いかにも庭の菊」という風情のまま我慢してもらうことに。
まあ余所のお墓の供花に文句言う人もいないだろうし、都会とは違って田舎ですから、一見して庭の花だと分かる供花のお墓も、よくありますからね。要はこちらが納得するか否か。
さすがにお盆時期の向日葵にはビックリしましたが、庭の花なのは当たり前の認識で「きっと故人が好きだったんだろうね」「子供なのかもしれないね」と、逆に嬉しくもなり。
花屋さんで仏花として売っている組み合わせ以外の花に一瞬ギョッとしてしまうのは、傍から見た正直な反応だと思うのですが、そこから何かしら慮れる、そこにある理由が汲み取れるのが、若くても他者に心を寄せられる者であり、年齢を重ねた者なんですよねえ。
経験って思った以上に大きいんですよね。目上に対する敬いって、そういうことなのだと思っています。余程でない限り、年齢に応じた経験があるのが普通ですから。
思いがけず「鬼滅の刃」が、昔のことや自分の思いを振り返り、それ以降の道のりと、気持ちや思考の変化を確かめる場となりました。
別に他に本を読んでいないわけではなく、つい最近だと叔母が「もしよければ読んで。読み終えたら処分しちゃって」と持って来た、垣谷美雨さんのを読んでいたところでした。
刺さるか刺さらないかは、どんな文学であろうが映画であろうが、全ての人にっていうのは無理な話で、それぞれですからねえ。時期や年齢にもよるし。
今回は、「善良な鬼と悪い鬼と~」が引っ掛かった、私の側の理由。
大人になってからバレエで知り合い、もう20年以上の付き合いの友達がいます。親友です。その彼女が40代代で、鬱になってしまいました。(Aとします)
鬱に「なりました」ではなく「なってしまった」と書いてしまうのは、彼女がそれまで10年以上我慢してきて、とうとう…という感じが、どうしても拭えないからでしょうかね。
以前から、人に言えないことがあるのだろうと思って見ていましたが、余程のことがない限り立ち入ることはしないのが一般的ですから、心配しつつも口に出さず留めていました。
ある日、昼間に会った時には『いつもの元気が無いけど、風邪?』くらいの心配度でいたら、夕方に「実は…」という泣きながらの電話。慌てて翌日その細かな事情を聞きました。
それは、今までよく耐えてきたね、そりゃあ心も壊れるよ…という内容で。
その原因の重たい話を聞いた後、
何もできない何がしようと思えない自分の状態が自分で分からなくて、ただただつらいんだけど、そのうち心も動かなくなってきて、中学生の娘のために最低限の家事はするけど、それ以外は一日中何も出来なくなった。
ある時、洗濯物を干そうとベランダに出た時、ふらふらと…となり、ふと我に返ったらもう苦しくて苦しくて、これはダメだ!とようやく気付いて、その日のうちに病院へ。その前から娘には病院行ってと言われていたけど自分では分かっていなかった。
薬をもらったら少し楽になってきたので、昨日の集まりに参加出来た。ハンナの顔を見たら「ああ話せる人がいた」と気が付いて、家に帰るなり受話器取ってた。驚かせてごめんね。
と、これまた重い話で。
ファミレスで向かい合って話を聞いていたんですが、泣きましたよ。どれほどつらかったことか…想像にあまりある。
その後、今度は娘の方にも辛さが染みて行ってしまい、母子共に何年間も苦しい思いをすることに…。友達として見守るしかなかった数年間、切なかったです。
薬が効いて、とりあえず普通に生活するくらいには改善し、見た感じも元に戻ってはきたのですが、心はまだギリギリの状態。危険なので無理しないようしつこく言っていた矢先のこと。
どういう了見なのか、何ともまあ余計なアドバイスをする人がいるわけですよ。
共通の友人なんですけどね。決して悪い人ではないんです。本人としては励ましていたつもりの、大きく分ければ優しく柔和な人。(Bとします)
私は勿論、当事者であるA自身も、Bに鬱とは明かしていないため仕方ない面はあるのですが、見た感じ気になったらしく、あれやこれや優しい口調でどこかで見てきた正論を。
Aは何も言わず張り付いた笑顔で聞いているだけでしたが、目の奥がどんどん曇って行くのが分かり。あんまりだったので、喧嘩覚悟で反論しました。
でもね。言っている本人Bとしては、正しいことしか言ってないのに、何故私に反論されるのかが理解できず、せっかくの思いやりを咎められたようで気に食わないわけです。そこからまた畳みかけるように正義と優しさの押し売りが始まり。
…怒鳴りつけそうになりました。
Bは今も付き合いがある友人です。ただ、普段から「他人の悪口言ったら死ぬ病気に罹ってる」と揶揄されるような人でしてね。いや、そこは庇わなくて良いだろう、と思われる場面であっても「でも、これこれこういう事情があるかもしれないじゃない」みたく言ってくる性格。
そうなると、言った方は別に悪気ないのにも関わらず、自分がさも悪意を持って対応したような形になり、おかしな罪意識を持たされてしまうことに。
こういうことを繰り返しているので、自然と人が離れて行ってしまうんですよねえ…。それこそ全く悪気はなく、本人としては正しいことをし優しくしているので、どうしようもないんです。
で、親友Aの方ですが。それきり、この友達とは縁を切りました。ただし、言っても分からないに決まっているので、ただただ連絡を取らないだけ。延々と。
この時も翌日に電話があり、実はずっと我慢していたと。
以前から何度も何度も、ピントのずれた励まし方をしてきていた。親切から言ってくれてるんだし正論だし、それを受け入れられない自分が悪いのだと思ってきた。でも昨日ハンナが反論したのを見て、言ってることは正しいのかもしれないけど、こちらの事情を何も知らない人の言うことに従う必要はない、親切心からだとしても傷ついたのは確かなので、これ以上関わりたくない、何か言われたくない。しばらく会いたくし話したくないから、常に留守電にしておく。
分かりますよねえ…。
それまでは普通に他の友達とも一緒に出掛けていた仲なんですが、抉られまくったもので、傷は思った以上に深く、鬱が改善してきてからも、声を聞くとフラッシュバックのようになって動悸が止まらなくなるとのことで。
Bから私に、「Aちゃん、どうしてる?留守電入れたけど返事がないんだ」と何度も聞いてきましたが、『具合が悪いのよ。筋腫取ったばかりだし』とか『また心臓の具合が良くないんじゃないかな』とか『ご主人の方で忙しいのかもしれないね』とか色々誤魔化し続け。
想定外に、それきりになりました。
あれから12年です。
私には、変わらず「Aちゃん、どうしてる?」から始まって、たまに色々聞いて来ますが、さすがのBも避けられてると理解したらしいので、直接電話することはなくなった模様。
何と言うか…。たまたま間に入ったからですが、どちらも悪くないんですよね。悪気は無いと言うべきかな。勿論、私はAの肩を持ちますが、BにはBの言い分があり。
よく物語では、何でもないことや正論、励ます一言、優しさからの言葉など、思い掛けない台詞で人を傷つけてしまう場面がありますが、目の前で見て、少なからずショックを受けました。
誰にでも起き得ることですから。
私も知らず知らずのうちに、どこかで誰かを傷つけてきたことでしょう。自覚があっても困るけど、自覚無しは対応のしようもないので、それこそ手の施しようがなく。
意見の相違なんかで人は傷ついたりしません。
その人が生きてきた過程で大事にしてきたものや気にしていたこと、忘れたい過去等々、静め、沈め、鎮めていたものに思いがけず触れられ、しかも深いところまで届いてしまうと、途端に致命傷になったりするんですよね。
だからこそつらく、だからこそ注意しなければならないという。
一方的な正論、片側からの正義、優しさの名を借りた暴言は、人の心を抉ります。
言葉は、簡単に刃物に化けますから。。
ここのところ人と話すことが極端に減っているので、東京に戻ってコロナが収まり、久々に誰かと会って話すとなった際、上手く話せるだろうかと心配になったりしてます。苦笑
杞憂に終わればそれで良し。
柔らかい言葉を使える人になりたいです。努力します。
長くなりました。お読みいただき、ありがとうございます。