生まれた子が小学校に入学し、真新しいランドセルを背負った子が卒業し、(うちの方だと)初めての制服に身を包んだ子が仕事を考えて進路を決める、6年ってそれくらいの期間です。
決して短い時間ではありません。
もう6年経ったのか…というのが、正直な気持ちです。私にとっては早かったです。
多くの皆様と同じく、H23(2011)年3月11日を忘れることはありません。
あの日に思った色々なこと、今でも時折思い出します。究極的な状況になった時、自分はこういう考えになるのか、こういう選択をするのか、といった諸々のことを知らされました。
息子は大学の春休みで家にいたので、息子の心配はありませんでした。
ただ、あまりにも冷静な息子に驚きを覚え、自分が少なからずパニックになっているのを実感することとなりました。息子によって、私も冷静さを取り戻したようなものでした。
娘は高校にいるはずでした。耐震の校舎なので大丈夫と思いましたが、どうしているか心配でなりませんでした。実際には高校近くのカフェだったのですが、幸い、少しだけ電話が繋がったので、家に向かって歩いて帰っていることを知りました。
娘が帰宅するまでの、あの居ても立っても居られない状態、二度と経験したくありません。
岩手にいる弟には携帯電話が繋がりました。弟も甥も義妹も無事であることを確認し、ほっと一息。停電でテレビがつかないという弟に、沿岸の惨状を伝えました。
一人暮らしの母より先に、弟と甥の安否が気になった自分に、ああ、私はこういう基準でいるのだと初めて分かりました。
恐ろしく極端なシミュレーションですが、甥と母のどちらか一方しか助けられないとなった場合、育ててくれた恩ある母より、甥の手を取るのだなと…。
真夜中に弟が信号が消えている国道をゆっくり走って実家に戻り、母が無事であることを確認して電話をくれました。安堵、とはこういうことを言うのだと実感した瞬間でした。
少し話がずれますが、昔、息子が小学生の時、目を傷めたことがありました。
救急車で運んでもらったのですが、その車中では、角膜移植を考えていました。
右目が利き目だから、左目の方がいいな。あ、でも私の都合ではなくて傷がないものをあげた方が良いから、ちゃんと調べてお医者様に決めてもらおう、とか色々。
幸い、大事には至らず、きちんと見えています。遺伝通りの近視・乱視ですがね。傷めた目の方がもう一方より著しく視力が低いですけれど、それくらいで済みました。
娘の顔が腫れ上がり、完治が難しい病気を疑った時も同じでした。
病気をしたのは娘なのだから代われるはずはないのに、何とか代わってやりたいという思いでいっぱいでした。どうか神様助けてください、代わりに私を用いてくださいと。
私程度の小さな経験でも、このように思うのですから、あの日は如何ばかりだったか。
自分自身を犠牲にして、身近な人を助けた方も相当いらしたことでしょう。
身近というより、人々皆の為に命を捧げた方も多く。避難を呼びかけるアナウンスのお嬢さんや消防団の方々は私共も知っていますが、報道されていないことも多いのではないかと思います。崇高な魂の持ち主、きっといらしたでしょうね。
そして、後悔の話をよく聞きます。お気持ち、お察しいたします。
あの時に引き止めていれば、声を掛けていれば、車を使わなければ…etc
命というものは、人生というものは、本当に儚いものだと思い知りました。
地震は予兆なく突然ですから、事前に何か手を打つということが出来ないため、尚更そう感じられるのでしょうね。交通事故とか、そういう類。抗えませんから。
6年目の黙祷を終え、命を奪われずにいた者として、当たり前のことしか思い浮かびません。
投げ出すことなく、大事に生きよう。精一杯頑張ろう。それだけです。
どうか、2万余の御霊と残された遺族の方々に、一日も早く安らぎが訪れますように。
お読みいただき、ありがとうございました。