真田紐。

着物好きにはお馴染みですが、世間一般では今の若い人は知らないような気が。

 

先々週だったか、幽閉されている真田信繁(幸村)が外国の紐を見て思いつき、「紐」を作らせる?シーンがあって。「これが後に言う“真田紐”である」ということで。

 

こういう歴史、つまりは始まりがあって、名物になっているんですよねえ。先人に感謝。

 

大河ドラマで知る歴史というものも侮れませんから、あれで「真田紐」を知った人、覚えた人、名前と物とが一致した人も多いでしょうね。今に続く日本の物作りの豆知識。

 

最初は三谷幸喜の個性的な脚本のせいで違和感のあった「真田丸」も、そろそろ佳境に入ってきたようです。もう今年も残り三カ月の10月ですから、そりゃあね。

 

土曜日の再放送で見ることがあります。申し訳ないけれど本放送では滅多に。はい。

 

毎度毎度なので慣れましたが、真田家以外の人は、どんなに有名であっても、いかに大事な合戦であっても、有働アナのナレーションであっさり最期を迎えてしまって。

 

本能寺の変の織田信長(吉田剛太郎)に始まり、穴山梅雪(榎木孝明)、明智光秀(岩下尚史)と、普通なら丁寧に描かれるはずの武将の死に様はなく、ナレーションのみ。

 

何ともシュールですが、真田家目線だと確かにこうなるか~と。斬新。

 

そういえば、その中の一人・加藤清正(新井浩文)も、あっさりしたものでした。

 

城の廊下で擦れ違いざまに、毒を仕込まれた刃で気付かないくらいにスッと傷を付けられて。(映像はここまで)→自分の領地に戻った後、病気を発症して死亡。は、ナレーション。

 

熊本の人は、地域限定で怒って良いと思う。w

 

くまモンだから、という理由でのみ買ってきたお菓子。美味しかったですよ~。

 

くまもとじょうを たてたのは 「かとう きよまさ」 だモン!』と教えてくれてます。地震で崩れた熊本城、早く元の雄々しく美しい姿に戻って欲しいですね。

 

 

「真田丸」の中で数少ない、亡くなる瞬間が描かれた豊臣秀吉(小日向文世)。

 

老いて行くにつれ、権力に執着して行くさまと付き従う周りの様子、そして「介護」が上手いこと描かれていました。豊臣が好きな人は不満を持ったんじゃないかと思うくらい。

 

どんな権力者であっても成功者であっても、年をとれば老いて行くのはこの世の道理。誰も逆らうことは出来ません。ドラマでの秀吉も同じ。史実かどうかはこの際無関係。

 

今更ながら、ご隠居制度って上手く出来たものだと思います。

 

武家であっても商家であっても、ある程度の年になったら、一番の責任者・権力者としての地位からは退いて、子どもに託すという。

 

後に続く人(大抵は子ども)が、その役を負える人物かどうかも大きいので、一概には言い切れませんが、老いを自覚しているというだけでも、隠居する人は真っ当だと思われます。

 

自分はまだまだ現役、自分がいないと回らない、自分の意見こそ正しい、自分が教えないと間違って行く…等々、老いた自覚のない人に限って、若い者を信用していません。

 

「まだまだ若い者には負けない」は、体力なり何なりが昔に比べて衰えてきたという自覚があっての台詞なので、これなら「そうそう、頑張って」と返せるんですよね。

 

そうではなく、「若い者は何も分かっていない」「若い者には任せられない」というところから始まっていると、どうにも閉口してしまい、「はいはい」「やれやれ」になります。

 

 

先日、日弁連が福井市内で死刑制度に関するシンポジウムを開催しました。

 

その際、死刑制度反対の立場である瀬戸内寂聴氏が寄せたビデオメッセージを流したのですが、その中で「殺したがるばかどもと戦ってください」という発言がありまして。

 

シンポジウムの聴衆には、犯罪被害者の方や、その弁護士もいました。その方々から、「殺したがるばかもの」とは言い過ぎではないかと、意見があって。当然だと思います。

 

まず最初、とにかく単に、最初に殺したのは加害者の方ですからね…。

 

仏教の教えを説く立場としては、死刑制度反対は当然のことだと思います。それは、キリスト教でも同じこと。「人が人を裁くことは出来ない」と考えていますから。

 

でもね。「殺したがる ばかもの」は、明らかに言い過ぎです。

 

死刑制度反対の中でも極端な人は、こういう偏った言葉を平気で発するんですよね。加害者の側、罰を受ける側の立場でしか、物事を見られなくなっていて。

 

加害者がいるということは、必ず被害者がいて、背景に多くの被害者遺族がいるわけで。

何故、一番大事なそこが抜け落ちるのか、全く理解できません。

 

死刑制度は難しい問題で、賛成にしても反対にしても、色々な意見や見方があります。

 

ただ、ただ、ですよ。よっぽどじゃないと、死刑にはならないのも実情で。

 

逆に言えば、幾ら遺族が死刑を望んでも、「一人」なら死刑判決は出ません。複数人で、情状酌量の余地がない場合しか、判決は下されません。

 

昔、冤罪があったのは報道で知っています。とても無情で、やりきれない思いだったでしょうし、取り返しがつかないとは、このことだと思います。

 

でも今は、被害者が一人の場合や、少しでも冤罪の可能性があるようなら(目撃者が少ないとか、物証が少ないとか色々)死刑判決は出ないし、かなり昔の判決だと、延々と刑務所暮らしで刑場送りになることはないし、と。

 

法の下、人間が出来る冤罪への予防は、とりあえず行っているんですよね。理に適っているかどうか、一度判決が出たのにどうなんだという論議はさておき。

 

さて寂聴氏。大正11(1922)年生まれの94歳。

 

小説を書いていたくらいですから、一つ一つの言葉が、とても重いことは知っていたはず。たった一語が、思わぬ流れを作ることもあるので、慎重に選んで書いてきたでしょうに。

 

それが、この始末ですよ。東日本大震災の時の発言も、どうなの?と思いましたが、どんどん酷くなって行きますよねえ。

 

年寄りは黙ってろ、とは思いません。年配者に意見を聞きたい時も、多々あります。でも、この人の場合、もうよろしいんじゃないかと本気で思います。

 

日弁連も、寂聴氏に頼るのは、もう止めにした方が良いでしょうに。それとも、この人より有名な人は、もう日弁連支持には回ってくれないのかな?

 

 

前々から言われていますが、犯罪の被害者ではなく、加害者を過剰に守ろうとするのは、そろそろ潮時のように思います。変わって行くことを望みます。

 

 

 

思いのほか長くなってしまいました。

お読みいただき、ありがとうございます。