第2集のまとめ。


ヤマト王権 空白の世紀


 前方後円墳はヤマト王権のシンボルで、近畿地方を中心に日本各地に拡大した。ヤマト王権は日本史上初の統一政権だった。

 倭には「宋書」倭国伝に伝わる五王と呼ばれた王たちがいた。

 讃 珍 済 興 武

である。彼らは天皇の祖先と言われ、5世紀頃の日本を治めていた。卑弥呼の時代は3世紀。4世紀は記録の残っていない空白の4世紀と言われている。

 倭王珍の墓と言われる仁徳天皇陵。広さではエジプトのピラミッド、秦の始皇帝の墓よりも大きい。倭の五王はなぜこれほど力を持ったのか?手がかりは空白の4世紀にある。


 4世紀後半に作られた奈良の富雄丸山古墳では、だ龍が彫られた盾形銅鏡64cmとともに全長2m37cmの蛇行剣が出土した。中国の鉄剣は1m程度で、蛇行剣は東アジア最大の鉄剣となる。ヤマト王権は優れた鉄の技術を持っていたようだ。

 五斗長垣内遺跡の炉を検証すると、同時代の炉にくらべて1000℃に達する範囲が広かった。このため広範囲の鉄を熱することができたのだろう。

 五王の初代讃は応神天皇と言われている。応神天皇陵は巨大で、連合政権の基盤を固めたことが分かる。鉄剣だけではなく農具、漁具も鉄で作られ、鉄こそがヤマト王権の力の源だった。


 倭国の特徴だと考えられる前方後円墳が韓国で15基発見されている。副葬品を調べると倭国で流行した剣や甲冑、鉄の鏃、装飾品などが出土し、墓は倭人のものだったことが示唆されている。当時朝鮮半島には、高句麗、百済、新羅、伽耶の4カ国が存在した。国宝、七支刀には百済と倭王の刻印が刻まれており、倭国と百済との関係があったようだ。

 高句麗の広開土王碑には倭国との戦いが記されている。倭国が朝鮮半島で戦った目的は鉄だったが、倭国には馬がいなかったが、当時の高句麗は馬から騎射で戦ったようだ。倭国は敗北を喫した。

 そこで倭国は中国宋皇帝への使者派遣を行う。中国は北魏と宋の戦争中であり、高句麗と北魏の接近を防ぎたかった。倭国の王は安東将軍号と朝鮮半島南部の指揮権を授かった。

 高句麗に手痛い敗戦を喫してから70年。倭王武の時代、彼は雄略天皇と同一人物と考えられ、ワカタケル大王とも呼ばれた強力な支配体制を築いたリーダーだ。高句麗は長寿王の時代に倭国は高句麗に戦いを挑んだ。

 倭国の秘策は鉄製の甲冑を量産したことだった。また、百済から馬を手に入れていた。馬を育てていたのは東日本地方だと考えられる。それだけ倭国が日本をうまくまとめていた証拠だ。敵を大いに破ったと日本書紀にあり、一矢報いたことがわかる。


 富雄丸山古墳の発掘では、銅鏡や貴重な竪櫛といった副葬品が見つかっている。ここに葬られているのはいったい誰なのか。

 6世紀半ば、欽明天皇の時代に百済の王から仏教が伝わり、経典と共に漢字や様々な知識、木造建築技術が伝わり、木造寺院が建築された。代わりに前方後円墳が姿を消した。倭の五王は激動の時代を生き、日本の礎を作った。