NHKスペシャルで久々に面白そうなテーマを取り扱っていた。まとめ。

 

 卑弥呼は魏志倭人伝に登場する倭国の王で、魏から親魏倭王の称号を得た。邪馬台国にまつわる謎に迫るーー

https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/2Z8RVKV3G7/


■邪馬台国はどこにあるのか

 九州 or 近畿説が唱えられている。

 九州の吉野ケ里遺跡では、石棺墓から線刻模様が発見された。これは宗教儀式、つまり鬼道で使われるもので、巫女=卑弥呼の存在を連想される。また、鬼道は中国の道教に連なる宗教だ。

 近畿の纏向遺跡は巨大な都市の遺跡だ。木材の年代を分析するとおよそ231年に伐採されたものだという。箸墓古墳は240年~260年に作られた。

 卑弥呼が親魏倭王の称号を得たのは239年。その死は247年ごろだ。

 

■巧みな外交戦略

 倭国には複数の王がいたとされている。卑弥呼は29カ国の国王から女王として擁立されたという。

 鳥取の青谷上寺地遺跡では受傷痕のある人骨が出土しており、このような人骨は日本各地から見つかっている。佐賀、山口、高知、鳥取島根、長野など。木の年輪を分析すると100年~170年ごろに干ばつや洪水が頻発していたようだ。それにより争いが起きていたのではないか。特に東海から東北南部には前方後方墳が広く作られ、パレススタイル土器など独特の文化があった。狗奴国の文化だ。王ヒミココが治める狗奴国は倭国と激しく戦った。

 青谷上寺地遺跡の人骨を分析したところ、中国系渡来人と縄文人の混血の割合が9割に至っていたそうだ。当時の中国は三国志時代であり、難民が東を目指し海を渡ってきたのだろう。その渡来人達が「鉄製の鏃(やじり)」を伝え、狗奴国との戦いはさらに激しさを増した。

 232年、呉の孫権は海から魏を攻めることを企画し、補給基地を得るために倭に近づいた。兵庫県の安倉高塚古墳からは呉の鏡が出土しておりその説を補強している。そこで卑弥呼は魏へ使者を遣わした。呉との関係をちらつかせ、魏から最大の支援を引き出したのだ。

 だが倭国と狗奴国との争いの決着はどの文献にも残っていない。

 AIを使用した前方後円墳の痕跡調査では、東北にも前方後円墳を多数発見した。

 狗奴国が治めていた東海~東北地方では、3世紀には前方後方墳が多かったものの、4世紀にはいると前方後円墳へ切り替わっていった。前方後円墳をシンボルとする倭国が勢力を広めていった様子がわかる。

 卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳では、これまでと違い技術的な革新「盛土」があった。魏から輸入されたとみられる盛土の技術は、前方後円墳を強く作れるようになっただけではなく水害に強い建造物を造る土木技術だったのではないか。倭国は技術力を中心に支配力を強めていったとみられる。

 

■卑弥呼とヤマト王権の関係

 卑弥呼とその後の歴史はどうつながっているのか。

 卑弥呼の死後この国を治めたのはヤマト王権だが、ヤマト王権の王は前方後円墳に葬られており、卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳も前方後円墳である。前方後円墳はヤマト王権の祭祀と政治のシンボルなのだから、卑弥呼はヤマト王権の最初の王ということになる。