釣りに関する本を探すと必ず出てくる名著「老人と海」。たしかに名著だった。釣り好きだけではなく、中年以降の年老いた皆さんにオススメしたい一冊。

 

 

 老人は84日間もの不漁に襲われ、手伝いだった少年は両親のいいつけで別の舟に乗っていた。85日目、老人は今日も「ラ・マール」へ漕ぎ出す。老人は少年に恵んでもらったイワシに鉤(ハリ)を刺し、海へ流したーー

 

 ストーリーは単純明快だ。なぜこんなにページを割く必要があるのか、なかなか進まない、イライラする、判然としない、モヤモヤとした気持ちが残る、こういう作品は「あれって・・」「あそこは・・」と気になって、自分の解釈を見つけたり、読み返したり、何度も親しむようになって、そういう作品を名作と言うのだろう。

 主人公は老人なのだから、これはもう、息が長い。自分も老人になるまで彼の気持ちはわからない。

 

 ところで釣りの物語といってもこの作品は、なんというか、トローリングとでもいうのか、大きな鉛筆ほどの太さの綱にワイヤーのハリスを結んで、ビンチョウマグロなどの切り身を重しに鉤先にイワシを指し連ねて、40、75、100、150尋ーつまり老人が手を広げた長さの40倍〜150倍の深さに流す、というものだ。アタリは生木の枝で取るのだという。無論リールはない。綱を遊ばせているだけだ。

 それで狙うのはカジキだという。

 つまりもう、イメージはマグロ一本釣り。年末年始のテレ東マグロ一本釣り密着が頭の中で再生される。やはりモデルは龍飛の小浜だろうか。もはやサラリーマンが休日に釣り糸を垂れる、普通の釣りではない。

 綱にワイヤー直結だから仕掛けに伸びがなく恐ろしく切れやすいだろう。その伸縮性を、老人は背中に綱を回して、自分の体で生み出す。一瞬も油断ができない。

 カジキがかかる。老人はしばらくカジキの好きにさせる。と突然、綱を手繰り寄せる。鉤をカジキの口に喰い込ませるというわけだ。そこからの戦いは、現実と夢、信仰と自信、現在と過去が行き来する大勝負である。

 老人のマグロとの戦いをどのように読むか。それを通して自分の人生も省みるような、そんな作品だった。


 以降ネタバレーー

 

 

 

 

 老人はただ魚と戦い、命がけの勝利を得る。彼は何日にもわたって戦ったのだ。意識が遠のく寸前、勝利を知った老人だったが、帰路むなしくカジキは鮫に食べつくされてしまう。結果だけ見れば、魚を獲らなかったのと同じだ。いや、むしろそれよりも悪かった。漁具を失った上、彼のカジキはアメリカ人に鮫と勘違いされてしまう。

 人生をどのように生きたとしても、最後はすべてむなしくなってしまう。どのように生きたかは自分しかわからない。だが他に何ができるだろうか?船の上で少年を想っても、若さは帰ってこない。過去の栄光は彼の技術、プライドと両腕に残っている。神に祈り、心から尊敬できる人を拠り所に歯を食いしばりながら、魚を釣る。

 避けられぬ敵が現れる。襲い掛かる鮫。無駄と知りながら、カジキを守るために叩き殺すしかないのだ。

 鮫を戦ううちに失われていく武器。銛もナイフも失い、最後は舵棒を武器にする。年齢と共にできなくなることが増えていく。


 彼が生きた価値とはなんだったのか?通りがかりのアメリカ人にしてみれば、老人はつまらないものを釣ってきた釣り人でしかない。その技術も、精神力も、筋肉も、海に対する優しさも、厳しさも評価の対象ではなく、結果でしかない。しかし老人が得た結果は正しく評価されただろうか。正しく評価される必要はあるのか。

 そんなこと老人には関係ない。老人の人生は老人しか生きられないからだ。