旅人は広野を歩いている。ふと足元に白いものを見つけた。拾ってみるとそれは人の白骨だった。

 旅人はあたりを見回す。旅人は前方から虎に狙われていることに気づいた。

 旅人は一目散に逃げ出した。そして崖から落ちてしまった。しかし木の枝に絡まった藤ヅルを掴み助かった。

 旅人が足元を見ると荒波が怒涛のように渦巻いており、海から3匹の毒龍が旅人を狙っている。

 上を見ると虎は相変わらず旅人を睨んでいる。捕まった藤ヅルの元を見ると黒と白のネズミが交互に藤ヅルを噛んでいる。このまま噛み続けられると藤ヅルが切れてしまうだろう。そうすると旅人は毒竜達が待つ怒涛の渦巻く海へ落ちてしまうのだ。旅人はネズミを追い払おうと藤ヅルを力いっぱい揺らした。

 すると、藤ヅルを揺らすたびに旅人の周辺にぽたりぽたりと垂れてくるものがある。何だろうと手に受けてみるとなんとはちみつだった。木にハチが巣を作っており、激しく揺れるとハチミツが落ちてくるのだ。

 旅人は自身に迫った危険も忘れてハチミツをむさぼり食った。


 というブッダの例え話を元にした本書。上記は記憶を元に適当に書いたものなので誤りが入っていると思います。

 

 

 たしかに身近な人が亡くなったり、芸能人が亡くなったニュースを見ると、明日は我が身と健康に気をつけだしたりするものだ。年を取るとあと何年生きられるかと考え、死から逃れようと健康に気をつけたりする。だが快楽を満たされると自分の欲を抑える事ができず、今を楽しんでしまう。

 へらぶな釣りをしていると、そういう話を耳にすることも多い。何々さん最近見ないねぇ、とか、あと何回釣りができるかねぇ、とか、死ぬまで使う道具だからよ、とか。


 恐らく浅田次郎と伊坂幸太郎の読み過ぎなのだろう、わたしは、人間なんてただの糞製造機&運搬機だし、死ねば灰になるだけだし、生きているだけで息をしてCO2を出して環境を破壊する、つまり地球にとって害悪でしかない。そもそもあと50億年もすれば太陽が膨張して地球を飲み込むし、もっと長い時間が経てば宇宙は熱的死を迎えるか、加速度的膨張で物質と物質の距離が無限に遠くなるか、領域的にインフレーションを起こして無限に膨張するか、まぁそんなところだ。宇宙自体あっても意味のないものなのに、生きていることに大して意味も目的もなく、地球のことを考えれば、人間は今すぐに死ぬのが大正解なのである。と、だいたいそういうふうに考えている。

 だが死ぬのはなんとなく怖いのだ。生まれる前を覚えていないことに怖さは感じないので、死んで脳みそが働かなくなるのはイヤな中でもなんとかなりそうだけど、死ぬ時は苦しそうだ。それがイヤなんだよなぁ。

 それに、せっかく産まれてきたのだからいい思いをしたい。楽しみたい。だからせっせと釣りに通い、なるべく長く釣りに通えるようにと健康を気にする。まさに冒頭のブッダの例え話のとおりだ。

 ということはわたしとしては「人生の楽しみを最大化」するのが人生の目的なのかもしれない。


 だが、楽しみを最大化、つまり「自分の欲を満たしたい」というのは、ブッダに言わせると悪手だったような気がする。あの人、欲望を滅したわけでしょ。そのわりには托鉢してお粥食べて、食欲だけはあるんだよな、とは、気になるのだけれど。

 わたしはどちらかと言うと原理主義者なので、仏教ってブッダが開いたとして、みんながありがたがっているお教って、ブッダが書いたものじゃなくない?と思ってしまう。するとブッダは本当はどんなことを言っていたのだろう。そう思い立ち、以前スッタニパータという、仏教の中でも古い経典と言われているものを読んだことがある。それで、久しぶりに拾い読みしてみた。


 第四 八つの詩句の章

 一、欲望

 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。

 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。

 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世でこの執著をのり超える。

 ひとが、日畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、

 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が侵入するように。

 それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲みだすように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。

ーーブッダのことば スッタニパータ 中村元訳ーー


 読み返して良かった。ブッダは欲がよくないとは言ってない。悪いのは「欲望を貪り求める」、つまり「貪欲」と言っている。托鉢してお粥食べるくらいはいいのか。・・釣りを楽しむのは問題なさそうだな、魚を傷つけているというところはのぞいて、だが魚をたくさん釣りたいまでいくと貪欲という気がしないでもないが、いいとしておこう。

 しかしニルヴァーナっていうのはよくわからないな。欲望を滅しきるわけではないのか。

 もう一節ブッダの言葉。


 第五 彼岸に至る道の章

 一一、学生カッパの質問

 カッパさんがたずねた、

「極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のために、洲(避難所、よりどころ)を説いてください。あなたは、この(苦しみ)がまたと起らないような洲(避難所)をわたくしに示してください。親しき方よ。」

 師(ブッダ)は答えた。

 カッパよ、極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のための洲(避難所)を、わたくしは、そなたに説くであろう。

 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、――これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。

 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、悪魔に伏せけれない。かれらは悪魔の従者とはならない。」

ーーブッダのことば スッタニパータ 中村元訳ーー


 欲望とは言っていないが、やはり執着から離れるのがニルヴァーナなのか。つまり程度の問題なのかな。どうなんだろう。もう少し具体的に言えないものなのか。カッパもカッパで、もう少し、はっきりと分かるように教えてくださいよ、定性じゃなくて、定量的な尺度でお願いしますって食い下がってくれないと、後世に残されたわたしは困ってしまう。

 なぜなら、本書によるとブッダはちょいと説教してバッシバッシと弟子に悟りを開かせているからだ。


 師(ブッダ)はこのように説かれた。修行僧たちは悦んで師の所説を歓喜して迎えた。実にこの説明が述べられたときに、六十人の修行僧は執著がなくなって、心が汚れから解脱した。

ーーブッダのことば スッタニパータ 中村元訳ーー


 すごい!60人もまとめて解脱させている!ブッダのお説教のありがたさときたら、諸行無常の趣きがある。現代の坊主なんか、いくらお教を唱えても自分自身さえも解脱できないんだから。圧倒的な無力感。もしかするとこの無力感が、諦めを産み、執着を離れるということなのかもしれない。ナルホド、悟った!


 それにしても、ブッダにしても、キリストにしても、なんで自分で書かないかな。布教したかったんでしょ?たくさんの人を救いたいんなら自分の言葉で書かなきゃ。弟子に書かせて、本来なら60人も一発で解脱させられるありがたい説教を、弟子がおぼろげな記憶を頼りに書いてるから、2000年?2700年?後にちゃんと伝わらなくて、わたしひとりさえ解脱できなくて困ってるんだから。ムハンマドは自分で書いたの?書いてない。書紀が書いたってwikiにある。もう!いい加減なひとたちなんだから!


 

 虎と旅人の話に戻して、ブッダの例え話を元にしたこの話について、SEらしくChatGPTにどう思うか聞いてみた。


 Q.以下のストーリーは、人間(旅人)は死から逃れる事ができないという寓話です。それを踏まえて、この後旅人はどうするべきか、答えてください。

サムネイル

この寓話は、死の避けられない性質を象徴しています。旅人は、どのような状況でも最後には死に直面することを意味しています。この物語では、旅人は避けられない運命に直面しており、死を受け入れることが彼のすべきことです。最終的には、旅人がどのような選択をするかは重要ではなく、物語の教訓は死が避けられないものであるということに集約されます。旅人は、その瞬間にハチミツを楽しむことで、人生の最後の瞬間を受け入れ、享受しているのです。

 「旅人がどのような選択をするのかは重要ではない」とはウンチクのある言葉をひねり出して来たものだ。はた目から、AIから見たら、生きることに意味なんてない、右を選ぼうが左を選ぼうが悩んでも無駄ですよと。それでもぶら下がっている本人は楽しんでいるよと。いいじゃない。これはいい。ブッダっぽい。

 ちなみに人間の死と紐づけなかったり、回答を複数あげさせるようにすると、大抵は虎と戦ったり、もがいているうちにチャンスが来るかもしれない、など、ChatGPTは死から逃れようとする。

 同じように、人間ももがいている。サイボーグ化したり、脳をコンピューターへアップロードしたりして、有機生命として不死を迎える、と言っても宇宙が今のままある限り、だが、そういう時代は、わたしの子どもくらいはギリギリ間に合うかも?などとは予想しているのだが。わたしは間に合わないだろう。

 人生の最後の瞬間ねぇ、、もし迎える余裕があるのなら、できればこうしたいというイメージが、実はある。


 次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差し支えはない。ただ楽である。否楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落し、天地をして粉虀して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。

 ーー吾輩は猫である 夏目漱石ーー


 ちゃんと間際は苦しんで、ついに諦めて、南無阿弥陀仏を唱えながら死ねるっていうのはなかなかいいかもしれない。猫ちゃん、ギリギリ最後に解脱してませんか?太平は死ななければ得られぬ。このセリフ、いいじゃない。