モラタメさんからいただきましたプレゼント


”初恋の味” カルピスウォーター








子供の頃からある、夏の定番ですニコニコ



私が子供の頃は

まだペットボトルはなくて、

お水で薄める濃縮タイプだけでした。


しかも入れ物は・・・瓶でしたえへへ…



便利な世の中になりましたなぁ笑



カルピスと言えば

あま~いイメージでしたが、

”カルピスウォーター”は、スッキリとした甘さで、

のどが渇いた時も飲みやすいですニコニコ



思えば、

濃いカルピスを作っては

母に怒られていたような・・・あせる



CMの能年玲奈ちゃんもカワイイですね。

カルピスの爽やかさにピッタリです音譜


母が亡くなってから

週に一度、

大量のお惣菜を作って

実家に持っていっています。


帰りは、

旦那さんの大きなワンボックスカーに

めいっぱいのゴミ(不用品)をつめて持ち帰ります。



母は、”捨てられない人”だったので

私と姉の部屋だった6畳二間が

完全に物置と化していました。


私と姉の二人分

小、中、高、短大の教科書から、テストやプリント類まで。

衣類は、なんとオムツから保管されていました。

他にも、ありとあらゆる物が山積みあせる


一部屋は、完全に床が見えず

荷物が天井まで積み上げられていました。



何度片づけようと言っても

母いわく

「要らない物はない」と。。。。顔 




これを機会に片づけようと

旦那さんにも手伝ってもらって

毎週末お片付けを始めました。


先々週あたりからかなぁ~

右手が痛くなりましたあせる


重たい物をたくさん持つから

きっと筋肉痛だろうと思い、

湿布を貼っていましたが、

一向に良くならず、悪化していきました。


先週、

辞書や百科事典などの

重たい本を片づけていた時

右手がしびれて激痛ショック!



それからというもの、

包丁でさえ、持てなくなってしまいました。



病名は 上腕骨外側上顆炎 叫び



分かりやすく言うと

腱鞘炎の一種です。


急激に負荷がかかり過ぎて

腱が痛んでしまったそうです。


治療法はなく、

できるだけ右手を使わないよう安静にして下さいとのこと。


湿布は、皮膚が弱くて被れてしまうので

塗り薬を処方してもらいました。



できるだけ左手で。。。と思っても

やっぱり難しいですねしょぼん


掃除機をかけるのは左手でもできそうビックリマーク

って思ったけど、

やってみると意外と難しくてえへへ…


諦めて、

お掃除はクィックルワイパーにしました。


フライパンも振れませんあせる



利き腕が使えないって

こんなにも不便なんだなぁ。。。。しょぼん






気分転換に

美容院に行ってきました美容院


5年間担当してくれてた女性が

妊娠を機に現場を辞めてしまったので

新規の美容院へビックリマーク



・・・・・・・・・・・・・・・撃沈ですガーン



男性だったんだけど

めっちゃお喋り好きな人で

シャンプー中もずっとお喋り。


おいてある雑誌が

女性自身とか女性セブンとか。。。

かえてもらったら

さんきゅ とか ESSE とか。。。。


シャンプーで癒されて

カラー中にはお茶を飲みながら

ファッション誌をゆっくり読むのが楽しみな私。


入店してから帰るまで

ずっと喋りたおされて疲れ果ててしまいました。


その上、カットが。。。。叫び


全く納得がいかないカットだったけど

もうそれ以上、カットしてほしくなかったので

何も言いませんでしたチーン


その美容師さん、

通信教育で資格を取ったコトを自慢げに話していました。


自動車学校と一緒で

学校に通った人は、みっちり勉強して試験をうけるけど、

通信教育は、一発テストだから落ちる人多いんですよ。

僕は一回で受かりましたけどね。

って。


次回も美容院、新規開拓しなくちゃだけど、

通信教育じゃなくて、

美容学校で、みっちりお勉強した美容師さんにお願いしたい。。。
















ゴーヤのお花ですニコニコ




今年も

緑のカーテンに挑戦ですビックリマーク


ゴーヤと、朝顔朝顔



狭いベランダなので

小さなプランターしか置けないんだけど

今の所、

順調に育ってくれています双葉



毎朝お水をあげながら、

この子たちの成長を見るのが楽しみです音譜


私は母から

”延命治療はしたくない”と生前、聞いていました。


自分がもう何も分からない状態で

機械に繋がれて、

無理やり生かされるのは嫌だと。。。


亡くなったおばぁちゃんを看取った時に

話してくれました。


おばぁちゃんは老衰だったので、

点滴のみだったけど

臓器が弱って、呼吸も弱くなって、心臓が止まる。

それを皆で見守っていたんだけど、

”死ぬのを待っている”ような感じがして

すごく嫌な気持ちになったと。




私が病院に到着した時

母はすでに機械に繋がれていました。


姉、父、母の兄弟で話し合ったそうですが、

父の強い希望で

延命治療をお願いしたそうです。


姉や、

おばぁちゃんを一緒に看取った母の妹は

もう休ませてあげたいと言ったそうです。


私がその場にいたら

どうしただろう。。。


母の意向は伝えても

やっぱり父同様、

少しでも長く生きてて欲しいと思ったと思う。





5月9日


母が倒れた翌日。

朝帰宅して、

旦那さんはそのまま出勤。


お洗濯を終えた10時ころ。


父から

「血圧が下がってきたから、もう危ないかもしれないって」

と電話。



枯れ果てたはずの涙が溢れる。


出勤したばかりの旦那さんに電話をして、

しゃくりあげながら

喪服の準備をしました。


もしも亡くなった場合、

すぐにお通夜、お葬式になってしまうから、

家に帰ってくる時間がないと思って。


母の状態を見たからだろうか。

涙が出て、息苦しくなっても

そんなコトを考えることができました。


帰ってきた旦那さんが

「喪服は準備するものじゃない」

と言うので

喪服は持たず、病院に向かいました。



病室には、すでに親戚一同集まっていました。


看護師さんが申し訳なさそうに


「血圧が急激に下がったので、皆さんを呼んでいただいたんですが、

もともと血圧が高くて、下げるお薬を入れたら効きすぎたようで。

血圧が下がり始めると、そこからは早いので、お声をかけていただきました。

すみません。」


そんな説明を受けてから

私たちは、モニター画面の血圧数から目が離せなくなりました。


この日、

集中治療室から個室に移動し

付き添いが可能になりました。






5月10日


自宅から、高速で1時間ちょっとの距離。

毎日通うのは大変なので、

とりあえず3日分の着替えを持って病院に向かいました。


姉は、パートがあるので午後から夕方まで。

私は、帰る家もないので、病院で寝泊まり。


夜になり、

父に、家に帰って少しでも休むよう言いました。

が、

帰ってる間に何かあったら・・・

と言って、帰りません。


私も、自分の家にいたら

もしもの時に間に合わないと思ったから

病院にいるので、父の気持ちはよくわかります。


病室には、ソファベッドが一台しかないので、

父に寝てもらい、私は丸イスで壁に寄りかかっていました。


2時間おきに、看護師さんが身体の向きをかえにきてくれて

口や鼻に管を通し、たんを取り除いてくれます。


ほとんど眠れませんでした。







身体の向きを変える時

足がピクピクと動きました。


物のような雑な扱いをする看護師さんがいて

父がその足を擦りながら

「嫌がってるから、もっと優しくしてやって。」

と言うと、

看護師さん「ただの反射です。」


その看護師さんがたんを取ると

透明なチューブがピンク色になります。

長いチューブを鼻や口に入れて、中を突くように動かすので

多分まわりが傷付いて、血が滲んでいるのだと思います。


名前を呼んでくれて

「ちょっと我慢してね」

と言いながら、優しくやってくれる看護師さんもいました。



されるがままの姿を見て、

私は、お母さんに申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。


きっと母は、

おばぁちゃんのこうゆう姿をみて

自分は、延命治療はしたくないと言ったのだろうと思いました。




延命治療は

残された家族のエゴだ。。。

そう思いました。



私の旦那さんや、姉の旦那さん・息子がいる前で

オムツが汚れていないかのチェックをされた時にはショックでした。

父も嫌だったと思います。


看護師さんも女性なのに。

「男性は席を外して下さい」の一言があってほしかった。


看護師さんにとっては

当たり前の作業の一つかもしれないけど

意識のある患者さんだったら、

男性がいる前でそんなことしないですよね。


憤りと同時に、

申し訳ない気持ちがこみ上げてきます。


嫌だよね。お母さん。

お母さん、本当にごめんなさい。

こんなことしてほしくないよね。


延命治療を望んでいないコト、

皆に伝えられなくてごめんなさい。


何をされても、

されるがままの母の身体。

機械に動かされている身体。

これで生きていると言えるだろうか。。。


そんな風に思う私の隣で

父は、母の身体を擦りながら

「意識はなくても、こうして看病ができてよかった。

あのまま焼かれて、身体まで無くなったら何もしてあげられなかった。」

と言う。


最初は

「寝たきりでも何でも、話ができたら、どれだけいいか。」

と何度も何度も言っていましたが、

2日、3日と経つうちに、父の気持ちも変化しました。


少しずつですが、

母の状態を受け入れられるようになったのだと思います。


母のいる病室で葬儀の話をする姉に

「廊下に出よう」と言うコトもなくなりました。



延命治療は、間違いなく

父の為のものだと思いました。





そんな毎日が5日間続きました。

食事は、3食売店のおにぎりか、サンドイッチ。

夜は、丸イスでの仮眠。

仮眠中も、2時間おきに看護師さんがきてくれるので

目が覚めます。


疲れがピークを超えていました。


そんな時、看護師さんから

「オムツや尿とりパッドなんですが、今まで病院のものを使っていて、

治療費と一緒に請求されるんですが、

売店で買ってきてもらった方が安いので、もしよければ準備して下さい。」

と言われました。


それを聞いた姉

「だったら最初から教えてくれればいいのにむかっ


「早い方は、2.3日で亡くなるので・・・。

でもまだ状態が安定してるようなので、お伝えしました。」




それを聞いた時

私すごく残酷なコトを思ってしまいました。



”早くて2.3日、長くて2週間”

と言われ、今日は7日目。


入院が長びくであろうから、

看護師さんは、オムツの購入をすすめてくれたのだ。


今日で一週間。

あと何日、この生活が続くんだろう・・・・。

長くて後一週間。。。



眠れないって、こんなに大変なんだと

初めて体験しました。

気力も体力も限界でした。


このままでは、

私が倒れちゃいそう。。


その日の午後、

父に頼んで

実家に行かせてもらいました。


家の中は

5日前と何も変わっていませんでした。


たまっていた父のお洗濯を済ませて

ひいたままの母の布団に横になりました。


身体が重く、

床の下まで落ちていくような感覚でした。



携帯の着信で目が覚めました。

父からです。

落ち着いた声でした。

「そろそろみたいだよ。」


時計をみると、3時間が経過していました。



しばらくして

母は亡くなりました。




あぁ。。。

私なんてコトを思ったんだろう。

きっと

お母さんに伝わっちゃったんだ。



”死ぬのを待ってるみたいで嫌だったよ”と言った

母の気持ちがよく分かりました。


母は、残された家族に

そんな気持ちにさせるのも嫌だと言っていました。


だから。。。

私がそんな風に思ってしまったから。

そんな風に思ったから逝ってしまったんだ。。


お母さん、ごめんなさい。

望んでいない延命治療をさせてしまったくせに

あと何日。。。なんて思ってしまって、本当にごめんなさい。




この経験をして

私も延命治療はしてほしくないと思いました。


自分も嫌だし、残った家族にも色んな意味で負担になると思う。

父は満足していたけど

姉は「意識がなくなった時点で、もう死んでる人だと思ってた。」と言っていました。


長く病気を患っていたのなら、考える猶予があるけど

母のような突然死の場合、すぐにすぐ答えを出すのは難しいと思う。


元気なうちに、

そうゆう話し合いをしておくのも必要だと思いました。




長文をお読みいただいて、ありがとうございました。

駐車場につくとすぐ

私は走りました。


車に乗った姉家族とすれ違ったコトも分からないほど

まっすぐ前しか見ていませんでした。


旦那さんが気付いて

後ろから呼び止めてくれました。


姉家族とは

お葬式で二度しか会っていないのに

しかも車に乗っていたのに

よく気付いたなぁ。。。

って

今になって思います。



「安定したから、子供を家に送ってくる」


姉の言葉に安堵しました。


「そううなんだ。安定したんだ。良かった。」



運転席から

お義兄さんが慌てて訂正する。


「安定したというか、状態が変わらないというか・・・

あっ、僕案内しながら説明するよ。」


そう言って

車を降りてくれました。


姉は「じゃ、また後で」

と言い残し、走り去りました。


救急の入口に向かいながら

お義兄さんの話を聞く。


「くも膜下出血でね、脳内の出血量が多過ぎて

手の施しようがないって言われてね。

倒れる前にも、何回か小さな破裂があったんじゃないかって。

手術をして血を抜くことはできるけど、

それでも意識は戻らないって言われて・・・。

だったら身体を傷つけない方がいいってコトで、

手術をするのはやめたんだ。」


早足で歩いているのに

自分の足で歩いている感覚が

全くありませんでした。


呼吸がまた苦しくなる。

涙がとめどなく溢れてくる。


「少し前に、自発呼吸がとまりそうになって

人工呼吸器をつけてもらったから

しばらくは、そのままの状態が続くみたい。」


待合室の横を通り過ぎると

母の兄弟が皆集まっていました。


会釈をするのが精一杯でした。


集中治療室の前で

手指消毒をして、マスクをして

面会謝絶の札がかかったドアをあける。


お義兄さんは、

私の顔を見てうなづき、待合室の方へ戻っていきました。


旦那さんが

隣で深く深呼吸をしている。

言葉はなかったけど

私のためだろう。

私も一緒に深呼吸。


そこには

機械に繋がれた母が横たわっていました。


隣には、

目を真っ赤にした父。


その光景をみただけで

また、こみあげてきてしまう。


必死に呼吸を整えた。


旦那さんが背中を押してくれて

ベッド脇まで進む。




「もうダメだって。まだ生きてるけど、死んじゃった。」


流れる涙も鼻水もそのままに

ただただ母を見つめる父。


かける言葉が見つからず

ただただ父の背中をさする私。


静かな病室で

機械で動かされている

母の呼吸音だけが耳につきました。


我慢しても

やっぱり、こみあげてきてしまう。


たまらず

廊下に出て、うずくまり嗚咽しました。



看護師さんに声をかけられ

書類を手渡されました。

涙で文字がにじんで見えません。


母の妹である叔母が

「落ち着いたみたいだから、帰るよ。

またお見舞いにくるけど、

何かあったらいつでも連絡して。

しっかりしなさいね。」

と、

二の腕のあたりをギュッとつかんで

帰っていきました。


呼吸が落ち着き、

病室に戻ると


「ここは集中治療室なので、付き添いはできません。

付き添いは、病室に移ってからお願いします。」

と、言われてしまいました。


「静かにしてりゃ、いいだろ」

父が言いました。


父の気持ちもわかります。

私も同じ気持ちでしたが、

母以外にも患者さんはいます。

もちろん、

付き添いの方はいません。



しぶしぶ廊下に出ると、

さっきの看護師さんが

「つきあたりの病室があいています。

もしどうしてもというのであれば、使ってください。

清掃が済んでいる病室なので、

ベッドや、ゴミ箱、洗面所をお使いにならないようお願いします。」


お言葉に甘えて

その病室をお借りしました。


父の口からは

後悔の言葉しか出てきません。


朝、頭が痛いって言った時に、

病院に連れていけばよかった。


そしたら、手術ができたかもしれない。

そしたら、後遺症が残っても生きられたかもしれない。

そしたら、話もできたのに。看病もできたのに。覚悟もできたのに。

ありがとうも言えたのに。


最期だって分かってたら、

救急車を呼びに外になんか出なかったのに。


母が倒れたときの様子を

この時、聞きました。


私は涙が止まらず、息もできず、

何も言えませんでした。



しばらくすると

姉が戻ってきました。


バスタオルとフェイスタオルを数枚持って。

姉は淡々としていて、とても冷静でした。


書類を渡すと

目も通さずに署名捺印していました。


「読まなくていいの?」


「読んだって仕方ないよ。

病院の言う通りにやってもらうしかないんだから。」



まぁ・・・そうだけど。



書類を書き終えると

「お父さん、お母さんの通帳を探して。

亡くなる前にお金を降ろさないと凍結されちゃうから。」



なんてこと言うんだろう。

と、その時は思った。


お父さんは、うつむいたままでした。



「葬儀社は、うちの近所に評判の良いところがあるから、

話聞いてくるよ。」



父はうつむいたまま、動きません。



私は、つい苛立って

「まだ生きてるじゃん。」

と、大人げなく言ってしまいました。




「死んでからじゃ、遅いんだよ。」





旦那さん以上に、冷静でシビアな姉。


血も涙もないのか・・・・

なんて、当時は思いました。


今となっては

そうゆう冷静な人がいたから

葬儀の準備も慌てることなくできたし、

金融関係や役所関係の手続きも

滞りなくできたのだと思う。


私と父だけでは

泣いてばかりで、前に進めなかった。

やるべきことも、できなかったと思う。



その後も

姉の涙を見ることは一度もありませんでした。




午前6時


どんなに悲しくても

生きている人間はお腹がすきます。


お義兄さんが

「何か買ってこようか?」


と言った時、

旦那さんが自分のバックから

おにぎりとお茶を差し出しました。


「よかったらどうぞ」と。


それを持っていたのに気付かなかったのは

旦那さんが、

コンビニの袋から自分のカバンに

入れ替えていたから。


それも旦那さんの気遣いなんだろうなぁ。


皆が悲しみに暮れているとき

食料が入ったコンビニの袋を持っていたら

やはり「こんな時に・・・」って思うと思う。


だから

目につかないように

自分のカバンに入れ替えて

必要になった時

差し出してくれたんだと思います。




あの頃は

日中は暑くて、夜や朝はまだ寒かったんです。

上着も持ってきてくれていて助かりました。


「ありがとう」

と言うと

「自分のために持ってきたけど、寒くなかったから貸してあげる」と。


旦那さんらしい返事でした。





看護師さんから

病室をあけるよう言われました。



容体も安定しているので

皆一時帰宅することになりました。


救急車に乗ってきた父を

実家まで送りました。


玄関をあけると

炊き立てのごはんの香りがしました。


母が

タイマーセットしてあったご飯です。


父も私も

また、こみあげてしまって動けません。



私は、しゃくりあげながら

キッチンに行き

炊き立てのご飯をタッパに入れました。


「せっかくお母さんが準備してくれたご飯だから食べてね。

残りは、冷えたら冷蔵庫に入れてね。」



「そんなもん。

いくら腹が減ったって、胸がいっぱいで食えんわ。」


父は

いつも母がいたキッチンに近寄るコトもできません。



今でも

家にいるコト自体が辛いと言っています。

まわりにある、すべての物が母との思い出です。


私は20歳から離れて暮らしていたから

今でも実家に行けば母がいるような気がしてしまいますが

毎日一緒にいた家で、独りぼっちになってしまった父の悲しみは

想像以上のものだと思います。



父は

お風呂に入ったらすぐに病院に戻ると言っていました。



「延命治療してもね、早くて2,3日、長くて2週間だって。

しばらくは大丈夫だと思うから、家に帰っていいよ。」




高速にのって家に帰る途中、

すっかり明るくなった空を見て、

全てが悪い夢だったような気がしました。


そうであってほしいと願いました。


大切な人がいなくなっても

この世界は何も変わらない。






家に着くと

旦那さんはシャワーを浴びて

そのまま会社に出勤しました。


私は眠くて眠くて、お布団に入ったのに

全く眠れませんでした。


母の姿を思い出しては泣きはらし、

冷静になって礼服の準備をしてみたり、

まるで

ジェットコースターのように感情の起伏が激しい一日でした。


私は普段、

あまり感情的になることがないので

すごくすごく疲れました。


長い一日でした。