昨年9月、ピピ島へ3年振りに戻れる事になってから、インターネットで「ピピ島の子供たちの絵本」を
立ち上げた人達、スタッフの方達の中に写真で私の友人が載っているのを発見しました。
そこで、片言の英語で、彼を捜しているとメールを送ったら信じられない返事が返ってきました。
ピピ島へ渡る3日前のことでした。
彼は、昨年の5月に亡くなったとのこと、、、、。
信じられず、途方にくれていると彼の友人らしい方たちがメールで詳しく事情を教えてくれました。
彼は、昨年の5月にプーケットにて、事件もしくは事故に遭いビルから落ちてそのまま亡くなったそうでした。
津波で生き残ったのは、妹が電話で確認したので安心しておりましたが、まさかあの人が死んでしまったなんて、
今でも信じられないでいます。
約束したのに、ピピに戻るからって、、、今度は赤ちゃん連れてくるからって、、、、。
もう少し早くピピへ行けたら、こんなに悔やむ事はなかったのに、、、、、。
泣いてはいけないのに、まだ今も悲しくて涙が出てきてしまいます。
昔、私と妹が1ヶ月半、毎日、彼と顔を合わせておりましたので、家族のように感じておりました。
訃報を聞き、自分の父が亡くなったときくらいに悲しくなりました。
気が抜けてしまった状態で、ピピ島へ渡ることになりましたが、心の中で何度も「Aさん、戻ったよ、遅くなって
本とにごめんね」と、あやまりました。
あの時、人は、いつ、何があるかわからないということを思い知らされました。
後悔しないように生きないといけない、そして、生きなきゃ、と。
その後、ピピ島へ渡る事が出来ましたが、宿泊はレムトンエリアでしたので、わずか数時間しか、
トンサイエリアには足を運ぶことは出来ませんでした。
主人が30分だけ、初のタイ式マッサージを受けている間に私は変わり果てたピピのトンサイ、ローダラム辺りを
歩きまわり、昔通った友人の雑貨店や、毎日、お世話になった食堂のお姉さんらを捜しに行きました。
会いたかったもう一人の友人は、クラビで働いていることがわかって生きていることが判明、それを聞き、また涙がたくさん溢れてきました。
その後、娘を抱いて、変わり果てた地を歩いていると、昔、毎日通っていた食堂のお姉さんが私の顔を見て、
「私を覚えてる?」って話しかけてくれました。
私はまた嬉しくなって泣けてきました。
あと、10分で船が出るというときでした。
慌てて、「また来年ね!」と約束して別れました。
妊娠、出産を経て太った私のことを気付いてくれて有り難かったです。
名残惜しいまま、この地を後にしました。
また来なくちゃいけないと強く心に誓いました。
同行してくれた主人に感謝です。
3年我慢した分、ピピへの想いが倍増しました。
さて、次の訪ピピはいつに、、、、。