まだ頭がボケていないうちに自分の人生を書いておこうと思う。
いつか子どもが読んでくれたら嬉しいだろうけど、気まぐれで全く知らない方が読んでくださって「こんな人がいたんだな」と思ってもらえても嬉しいです。
今は2026年2月。自分も65歳となりました。
びゅーんと遡って1981年6月ころの土曜日、21時ころ・・・
いつも自分の若いころを思い出す時はこの場面からになる。
高知県香美郡山田町、土佐山田駅、高知市内から1時間程の田舎の駅。
ここで当時、つきあっていた彼女と待ち合わせ。
高知市内に住んでいた自分は中古で買ったセリカに乗って彼女が乗っている列車を待っている。
辺りには、もう既に湿気を含んだ夏の匂いが充満している。
土曜の夜なのに?なんで、自分はこんなにも静かで虫の声しか聞こえない場所でのんびりしているんだろう。
車の中の自分は先週までのアルバイト先での熱狂の風景を思い出す。
さらに2年前、1978年に高知県立東工業高校を卒業したのちに、あまり深くも考えないまま進路指導に流されるまま高校の近くの1000人規模の工場に就職した。
ここでの生活は、「ペリーヌ物語」の祖父の工場か?GO-BANGSの「幸福って何?」のPVのようでした。
※現在公開されている「ざまぁカンカンガール 幸福って何?」のPVは楽曲部分のみを遺したショートverです。公開当時は前半に工員女子の地味な恋愛模様のドラマがあって、おそらくふられた相手であろう男性にヴォーカルの森若さんが電話するものの声を出せずに黙っていると電話口の男性に「もしもし?もしもし?なんなんだよ」みたいに電話を切られてしまうんですけど。
その後、しばらく受話器を握っている場面などがありました。
ちなみにこの男性の声は秋元康さんだったとなんかで読んだ記憶があります。
後日、GO-BANGSのメンバーに逢った時にこのPVの話をしたところ森若さんに「えー!!どこで視たんですか?あれって長いからほとんど放送されてないんですよー」と喜ばれました。
さて、そんな工場勤めは4か月程度であっさり終わってしまいます。
と云うのは、父が経営する「曳家岡本」の唯一人の免許証持ちであった吉田さんが他社に引き抜かれて現場に運転手がいなくなった為に、父から稼業を手伝わないか?と言われたのです。
母親が出て行ってから、自分と弟は父親だけに育てられていましたので自分が父の力になれることならやらないとなーと漠然とした気持ちがありました。
しかし、もともとの肉体的なポテンシャルの低い自分にすれば現場仕事をやれるのか?躊躇もしていました。
父はその心配を先読みしていたのでしょうが、「運搬と少し現場でモノを運んでくれれば良いから」と言ってくれました。
とは言われたもののデビュー日は、2階建ての木造住宅の土台に350mmのH鋼を取り付けて嵩揚げ工事をして階下を駐車場にする、通称「下駄履き」工事のH鋼取付け日。しかもまあまあ激しい雨。
重いのと感電するんでないか?との恐怖からぬかるんだ現場で「七人の侍」の野盗との合戦シーンを思い浮かべていました。
雨の中のデビュー戦以降はそれほどたいへんなこともなく半年ほどが過ぎました。
今でこそ曳家職人は希少種で常ではありませんが、やや大切にされる場面も増えて来ましたが、当時はそれほど特別な技術でも職人でもありませんでした。
なにしろ人口30万人の高知市に同業が13社もいるのですから珍しくもない光景でした。
そんな自分に一大転機が訪れます。
映画「サタデーナイトフィーバー」が公開されて世の中のディスコブームはクライマックスを迎えます。
自分はディスコブームより映画のなかのジョン・トラボルタ演じるペンキ屋の兄ちゃんがディスコではスーパースターになる話にものすごく感化されて、自分も現場以外でカッコよくなりたいなーと考えてディスコや深夜喫茶に出入りするようなります。
そんな中で、東京の広告代理店勤務を辞めて帰省して地元のガソリンスタンドチェーンの販促担当として働いていた岩崎さんに「岡本くん。いつも夜、喫茶店にいるだけだとお金も使うし、うちの会社が経営しているディスコで働かない?」と誘って貰いました。
後の自分にとって得難い体験となるのですが、このディスコ「キャステル」はまだ無名だった頃のタモリや、デビュー直後のジューシィフルーツなどのライブを企画していました。
自分が勤務しはじめてからも「オンリーユー」で有名なプラターズのライブも実施しました。
このライブではきちんとしたバックバンドを同行させる規模でもなかったために各地で地元のアマチュアバンドからキーボードが呼ばれて参加していました。
高知ライブではお店によく遊びに来てくれていたANN-TINNと呼ばれていたアフロヘアの女性が参加してました。
ちなみに「オンリーユー」のヒット当時のヴォーカル・トニーウィイリアムズは日本には1回しか来日してません。
しかもその時は既に往時の声量はなくセカンドヴォーカリストがいて自分のヒット曲のみ歌うという内容だったそうです。
※
そういや、チャカ・カーンの武道館ライブのときにPAチーフオペレーターがドラッグで逮捕されていて来日できなくてサウンドメディア(当時はギンガムだったかも?)の瀬山さんが急遽、チャカ・カーン本人に依頼されてトラを担当したけど初日を観た観客から「なんでチーフが日本人なんだ!!」とクレームが出て翌日はアフロのかつらに黒人メイクのドーランを塗って担当したと言ってました。
じゃあ、BOOWYの大阪城ホールでのライブの時も瀬山さんがトラをしたんだけど、「なんでマイケルでないんだ!」と言われたりしたのかなー。瀬山さんは自分たち夫婦が結婚して2年くらいしてから癌で亡くなられたんだよな。
ルースターズをはじめいろいろなロックバンドが瀬山さんにお世話になったと思うけど、今はもう瀬山さんの思い出を語る人も減ったんで自分が書いておきます。
そんなわけで、昼間は父親と曳家をやりながら夜はディスコという生活を3年くらい続けていました。
小屋付きのハウスDJをやっていた頃は土曜日とかお客さんがフロアに増えすぎるとフロントから「悪い。少しお客さんを減らしてくれないかな?」と連絡が入ります。
ハウスDJの場合はアーティストを気取ることなく、料金分きちんと愉しんで踊ってもらうことを大切にしますから踊りやすい「今夜はドントストップ」や「愛のコリーダ」などを4曲程度かけた後にダンスフロアの様子を視ながら、もう少し激しい曲につないでおいて疲れてボックスに戻ってもらってドリンクを買ってもらうよう仕向けるのか?
或いはトムトムクラブの「おしゃべり魔女」などニューウェイブ系に換えてその後のデュラン・デュランやABCと流してUKロック好きをおいてけぼりにしないタイミングにするか?を判断します。
セックスピストルズやクラスなどのパンクはフロアに踊っている人がいなくなったタイミングでリクエストに応えるようします。
で・・・お客さんを減らすテクニックとしては1時間前にかけた曲をそっくりそのまま同じ曲順で4曲から5曲流します。
すると「同じ曲がかかりはじめたから」と3割くらいのお客さんは次の店に流れてゆくものでした。
つづく