
『African soul cafe』にて気付いたこと。などなど…
ASANTE SANA 「ありがとう」
昨日
『鼓書鼓書』でセッションした
SOULKNOCK☆あきちゃんの
大阪でのワークショップに
参加して来た。
まずはスワヒリ語でご挨拶。
よく知られてる
「ジャンボー!」では現地では
イケてない外国人ととられるらしい。
HABARI
「ハバリ」がこんにちは!ごきげんいかが?
で
上々でーす!的に返すのが
NZURI
「ンズリ」
だそうで
スワヒリ語は
ほぼローマ字読みでいいらしいので
覚え易い。

用意されたハイビスカスシロップのソーダ割りに
ミントの葉をわたしは珍しく
てんこ盛りにして
飲みながら
ケニアの山奥にあるとある部族の村に
一ヶ月ほど滞在した
あきちゃんの話を聞く。
首都ナイロビのちいさな街角での
笑い声に引き寄せられて
その様子を近くで見たら
ムゼーと呼ばれる長老を囲んで
周囲の若者がムゼーの話に
大笑いしている。
その真ん中にいるムゼーは
手足がない状態。
若者たちがこの長老の
お世話をしているらしい。
何故こんなにも
無邪気な明るい笑顔なのか?
そう思って目の前の光景を見ていたら
それに答えるように
ムゼーはあきちゃんに言ったらしい。
「手足がなくとも自分は十分に足りている」と。
「キミは(わたしより)多くを持つが故に、様々な悩みも持っているのではないか?」と。
どの若者より
ムゼーの笑顔は一番きらきらと輝いていたらしい。

わたしはこの話を聞いていて
2つの事柄を
思い出した。
1つは龍安寺のつくばいで有名な
『吾唯知足』(われ ただ たるをしる)という言葉。
「人は欲張らず、今の自分を大切にしなさい」
「足ることを知ることは、不平不満を言わず豊かな生活を送ることができる」
という意味。
もう1つは
入江富美子監督の映画
『天から見れば』
両手を失ってから
日本画家となった南さんと
師であり同じく両手がない
大石順教尼のエピソード。
先月神戸でのイベントで監督が
話されていたことを思い出す。
あー
この映画昨年から見そびれていたんだなあと。

で
自分のカラダに向けて
ありがたさを感じながら
各部位に対しての「おかげさま」を考えるワークでは
そのなかでも
わたしは
すべての「司令塔」である
脳に
いちばんの「おかげさま」を感じた
とシェア。
そんなことを言ってるわたし…
冷静で意外だったなあ…(苦笑)

後半
それぞれ直感で持ち寄った
身近な物を楽器代わりにしたり
また
テーブルを太鼓に見立てて音を出し
みんなでフリーセッションしていたら
「区切る」「仕切る」「調和」
というワードが
演奏?中
頭に浮かんで来た。
わたしの
役割的なものなのかしら?
あきちゃんと
ご一緒させていただいたみなさまー(きこさん、紗ららさん、ゆう子さん)
いろいろ
気付かせてくださり
ありがとう。

グラウンディングにちなみ『土』という文字を記念にプレゼント。
そして
やっぱりわたしは
自分と向き合うワークよりも
カラダを
動かすことが気持ちよい
ということと
あらためて
わたしのカラダは
丈夫なんだなーって
授けてもらった
両親と
それを
知らない次元の
何処かで
選んで
今世生まれてくることが出来て感謝。
本当によかったと
思った。

ポヤーーーーーーーン(笑)
恥ずかしいけど
素で
ちょっとくったりしてる
今(昨夜)のわたし。
「おかげさま」です。
『感じる書』アーティスト こきゅう