今年も一昨日、各地で成人式が催されましたね。成人式は、奈良時代から始められた「元服の儀」に起源をもつ行事で、一般的には、地方公共団体などが、成人に達した若者を招き、講演会やパーティーを催し、記念品などを贈って、祝福したり、励ますものですが、近年では、少子化もあって、式に出席する若者の数も減っている一方、せっかく豪華に着飾って式に出席しても、久し振りに会った友人などとの談笑に熱中する余り、主催者の式辞や講演などにまったく関心を示さず、式典そのものがざわついた雰囲気になってしまったり、羽目を外して暴れ回る若者もいて、本来、一人前の大人になった決意をすべき場の成人式が、かえって若者のモラル低下を露見させる場となってしまっていることも指摘されています。

このような現象を成人式の七五三現象とも言うそうですが、そもそも年齢として20歳を迎えたら自動的に一人前の大人と見なしてよいかというと、そうとは言えません。個人差があるものの、大学生ならば20歳を迎えるのは、2年生 (あるいは、浪人をしていれば、1年生)、短大生の場合は、卒業を間近に控えて、春からやっと社会人1年生になる時分。どう考えても、まだ、完全に経済的にも、精神的にも親から自立出来てはいませんし、社会の厳しさも知りません。(特に日本は、親子の繋がりが強いので、いつまでも守られた環境の中で甘やかされがちです。) そう考えると、20歳即大人とは呼べないわけですから、成人式の意味自体も危うくなってしまいます。

作家の村上春樹氏や田口ランディさんは、『30歳成人説』を提唱しておられますが、確かに20代の若者たちは、夢にあふれている反面、自分の楽しみばかりを追及して、社会の一員である自覚が欠けている人が多いように思われます。しかし、さすがに30歳近くになると、社会経験も積み、ある人は、結婚したり、子供ができたりしていて、社会的責任も自覚するようになります。したがって、社会の中で、周囲からも大人として認めうる人間になったという意味では、『30歳成人説』には、一理あることになります。実際、自分自身のことを今、思い返してみても、私にとって20歳の成人式は、あまり強い印象がなく、「大人の仲間入りをした」と言われても全く実感がありませんでした。

さて、「大人」をいかに定義し、何歳になったら「成人」と呼べるか、と言う議論になってしまいましたが、では、なぜこんなにも意味づけが薄くなってしまった成人式を何のために、また、誰のためにやるのでしょう? テレビのインタビューなどで、新成人が、「大人になった決意は? 大人になってやってみたいことは何か?」と聞かれて、まだそんなに明確に答えられずにいる様子を見ていると、むしろ、成人式は、新成人本人たちよりも彼らの親たちのためにこそあるのではないかと感じられます。ここまで無事に子供を育ててこれた、まだ完全に終わったわけではないにしても、ある意味、子育てという親の責任を果たし得たことを喜び、また、これまでの苦労が報われたことにある種、感慨にふけってもよい日なのではないでしょうか?

ちなみに、今年、私の一人息子も、無事に成人式を祝うことが出来ました。住んでいる箕面市の主催する成人式には行かなかったようですが、出身高校で成人の日の午後に催された祝賀会には参加して、大学進学以来、会っていなかった高校時代の級友たちとも再会出来、楽しい時間を過ごしたようです。

彼が生まれたのは、私が、イギリスの大学に留学し、博士号取得のための研究をしていた時。英国は、日本とは違い、外国人のカップルであっても、イギリス内で生まれる子供は、すべてイギリス人扱いしてくれるため、出産のための入院費用は無料でしたし、ミルク代もイギリスの税金から出して頂きました。まだ、収入のないままに研究をしていたので大変助かりましたが、うちの息子は、なにせ、癇が強く、よく大泣きし、なかなか泣き止んでくれませんでしたので、あやすのに大変、苦労しました。泣き声を聞き付けた同じアパートの住人から幼児虐待の可能性があると警察に通報されてしまったことさえあったんですよ。(^0^;) また、彼が生まれて半年も経たないうちに阪神淡路大震災が起こり、当時、阪神間、西宮市に住んでいた両親としばらく、まったく連絡が取れなくなり、遠く離れたイギリスから安否を心配しました。そんな色々な思い出のあるイギリス留学中に生まれた息子ももう20歳。親としてはやはり、感慨深いです。

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