こん!







午後から休みをもらい、2回目のワクチン接種へ行って来ました。


うん、今のところ、なんともないですね。


こっちの地方でも、感染者は増えたままだから、まず、予防だけはしっかりとしないとね。








頼朝さんの、山木館の襲撃から、石橋山合戦を、極めて冷めた視点から見ていた人がいます。


1180年当時、京都の朝廷で、右大臣の官職にあった…………、







九条兼実さんですね。


もちろん、まだ平家の勢力が強く、摂政や関白として隆盛を誇った藤原摂関家も、決して安全なわけではなかった世情です。

兼実は、そんな中にあって、10歳で左近衛権少将に任官し、左近衞中将、中納言と昇進していきます。




「謀反の賊・源義朝の子はかねてより伊豆国へ配流となっていた。
だが近頃、凶悪を為し(中略)およそ伊豆・駿河両国を押領した。
かの義朝の子は謀反の大略を企てているのか。まるで平将門のようだ」。
(治承4年9月3日)


これは、頼朝が、伊豆で挙兵した一報を聞いた兼実が、日記に記した記事ですね。

西暦に改めると、1180年9月25日ってことになります。


このとき、まだ記事に「源頼朝」の文字は出ていない。

平治の乱での謀反人・源義朝の息子というくらいの、軽々しい認識です。


承平天慶の乱での、平将門を引き合いに出すあたりに、いかに地方の騒乱に敏感だったかがわかります。


この数日ののち、兼実は「こういうことがあると、またさらに乱れた世になる。やってらんねーぜ!」という意味のことも書いています。







これが今日、日記「玉葉」として、平安末期から鎌倉時代初期にかけての一級史料となり、研究者垂涎のものになっているんですね。


さすがは兼実さん、関白だったのはダテではない!




叛逆者の息子という汚名での登場だった、頼朝さん。


この3年後、兼実による頼朝の評価は、180度変わり、爆上がりします。


それは、平家政権によって抑圧されていた旧来の公家の悲痛な叫びと、それを乗り越えた歓喜が入り混じったものだと言えるでしょう。












コップンカップ!

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