最近、よくこの人たち関連の動画がyoutubeに入ってくる。

 

 

イギリス国王ヘンリー8世とその妻、キャサリン・オブ・アラゴンアン・ブーリン

 

他にもいろいろキャサリン・ハワードやらジェーン・シーモアなど。

 

 

おそらく、QUEENつながりだと思うが、皆さんそれぞれクオリティーの高い動画をアップしてくださり、歴史にうとい私は大変勉強になっている。

 

 

ヘンリー8世は1509年から1547年までを統治したテューダー朝(イングランド及びアイルランドの王朝)の第2代のイングランド王。

6人の妻をめとり、離婚再婚を繰り返し、アン・ブーリンを二番目の妻にしたいがためにプロテスタントに改宗し、国教会の長になった。

 

アンは、ヘンリーとの間に後にイングランド女王となるエリザベスをもうけたが、男児を死産したことで、ヘンリーに飽きられ、不義の罪を着せられて処刑される。

 

17歳で王位を継承した当時は語学にも堪能で芸術を愛する王だったのだが、馬上槍試合で落馬して、2時間ほど意識を失い目覚めた時には、人格が変わってしまっていたというエピソードもある。

しかし、落馬したのはアンと結婚後であり、それまでも女性関係にだらしないところを見ると、この話もどこまで本当かわからない。

 

とにかくこの王様、結婚する→飽きる→浮気する→離婚する、都合が悪いと処刑するというサイクルを繰り返す暴君だった。

 

 

この時代はふくらはぎがたくましい男性が魅力があるとされた。

ヘンリー王は少しでも良くみせようと靴下止めをきつく締めすぎたため、足の血流がわるくなり、そのためにできた潰瘍の痛みに生涯苦しめられたニヤニヤばかじゃなかろうか

 

 

リック・ウェイクマンの「ヘンリー8世と6人の妻」を高校生の頃、初めて聴いて、妻たちの事に関心をもったものの、深堀りしなかったので、今あらためて未熟ながらも書いてみます。

 

ちょっと長くなりますが、時間の許す方はお付き合いください。

 

 

1. キャサリン・オブ・アラゴン1509年結婚、1533年離婚)  

 

 

一言で言えば、運の悪い王妃。

スペインのアラゴン国の王、フェルナンド2世の娘。

 

このスペイン王家の娘とヘンリー7世の息子であるアーサーとヘンリー8世は姻戚関係にあった。

政略結婚のため、14歳でアーサー王のもとに嫁いだキャサリンは、なんとその宴の最中に当時12歳のヘンリー8世に目をつけられてしまう。

政略結婚とはいえ、アーサー王と静かな愛情で結ばれていたが、結婚した翌年、アーサー王は流行性感冒にかかり、あっけなく死去。

 

 

 

アーサー王が亡くなった時点で本来なら、キャサリンは持参金をもたされて、スペインに返されるはずだったのだが、持参金惜しさのヘンリー7世(ヘンリー8世の父)は

こともあろうに自分の後妻にとキャサリンとの縁組を申し出る。困った父。

 

さすがに最初はそんな破廉恥なと怒っていたスペインだがヘンリー7世がそれを取り下げ、息子ヘンリー8世との婚約を教皇側に申請すると、まあ、アーサー王とホントの夫婦になっていたのかどうかはギモンだし、とこれを許す。

 

ちょうど、その時体調をくずしていたキャサリンはヘンリー8世がいい人と錯覚してお見舞いを心待ちにする笑い泣き

 

ヘンリー7世の死後、王位についたヘンリー8世は国の政治の事なんて何とやら、ただただキャサリンと結婚することだけを熱望していたというからあきれる。

 

父王の喪が明けるのももどかしく、さっさとキャサリンと結婚する。

 

しかし、望まれて結婚したものの、この結婚は彼女にとって不幸の始まりだった。

 

死産や流産を繰り返し、やっとのことで生んだ男児も生後50日で亡くなってしまう。

 

 

7回妊娠するも男児をまなかったことでうとまれて、ヘンリーは後の妻となるアン・ブーリンと公然と浮気をする。王だけではなくアンからも追い出しにかかられていた。

ヘンリーがフランスに遠征している間、かわりに国務をつかさどるほどの能力の持ち主であったにもかかわらず、キャサリンは度重なる妊娠、出産でやつれ、ますますヘンリーの愛情は遠のいた。

 

 

 

 

それでも、離婚に応じないキャサリンにヘンリーがとった最終手段はカソリックからプロテスタントに改宗し、自ら国教会を設立し、キャサリンとの結婚を無効にすることだった。

追放され、キャサリンはアーサー王の未亡人、一人娘のメアリーは継承権もなく私生児扱いとされた。それでも彼女は生涯、自らをヘンリーの唯一の合法的な結婚した妻とイングランドの唯一の正当な女王と呼び、民衆に好かれた。

 

亡くなる前、最後にアーサーにあてた手紙は「イングランド王妃 キャサリン」とあった。



2.アン・ブーリン1533年結婚、1536年離婚)          


 

エリザベス一世の母親であるという事で、映画やドラマにもよく描かれる。

駐仏大使トマス・ブーリンと第二代ノーフォーク公トマス・ハワードの娘、エリザベスの間に生まれた。

ブーリン家は娘を伯爵家と縁組みさせたり、王に差し出すことで家柄を高め、領地を拡大していった。一番目の妻、キャサリン・オブ・アラゴンの侍女から王の妾になる。

この人、ドラマや映画では、センスが良くチャーミングに描かれているけれど、どこと言って取るところのない女性だったという説もある。

しかし、次期王妃の座をねらう欲だけは人一倍あったようで、OLが不倫相手の上司にどう責任をとってくれるのよ!的にヘンリーに迫り、王からキャサリンと離婚したいと頼まれたローマ教皇は結婚を無効扱いすることによってこの願いをかなえた。

 

 

 

 

前妻のキャサリンが亡くなった時には、アンは王ともども黄色い衣装(黄色は喜びを表す)を着て、ダンスを踊ったニヤニヤひどい女

 

 

しかし、人を呪わば穴二つとはよく言ったもので、キャサリンの葬儀の日、アンは男児を流産する。このことがきっかけで、すでにアンのいとこジェーン・シーモアと浮気をしていたヘンリーの愛情は急速にアンから離れていく。

結婚から2年後の1536年、アンの何気ない会話の一部が国王暗殺の計画ととられた。おまけに実の兄を含む、5人の男との不義密通という根も葉もない疑いをかけられて、

5月12日ロンドン塔で斧により(まだギロチン台は発明されていなかった)斬首された。

処刑の日、アンは群衆に向かって「私は一切の弁明をしない、神のご加護が王を守り、みなさんに平和な世が続きますように」といさぎよい態度を見せた。

 

昔、アンの生涯を描いた「1000日のアン」という映画を見たことがある。

ストーリーの細かなところは覚えていないのに、首を切られる瞬間のアンが一瞬、処刑人を振り返り、それにひるんだ処刑人が「打ち損じます!前を向いてください」と叫んだシーンがなぜか印象に残っている。

 

 


 


3.ジェーン・シーモア1536年結婚、1537年死去)        

 

 

 

父ジョンはヘンリーの腹心の部下。長男トマス、次男エドワードも宮廷につかえていた。もともとは、ジェーンはすでに一番目の妻、キャサリンに使えており、イングランド西部巡幸の際にシーモア家を訪れたヘンリーがジェーンを見初めて宮廷に呼んだという説がある。

ジェーンの実家であるシーモア家はこのことを狙ってわざわざ王の接待に宮廷から呼び戻したというから抜け目がない。

しかし、当のアーサーもすでに現在の王妃であるアンに飽き始めていた。

そんな折、気が強くヒステリックなアンにくらべてジェーンの物静かな優しさに癒された王がアンを見限ろうといろいろ画策したのはうなずける話である。

 

 

 

 

アーサーはジェーンを口説きにかかるが、彼女の親や兄弟はアンの例をみているので、そこは容易周到。簡単に返事するな、態度はそっけなくして相手をじらせと指導する。飽きられてポイで首なんて切られたらたまったもんじゃないから。

最初こそ、アンにも遠慮していたジェーンだったが、完全にアーサーがアンを見限ったと知って徐々に大胆になる。

 

アンが処刑された翌日にヘンリーはジェーンとの婚約を発表。

結婚後もヘンリーに従ったジェーンだったがキャサリンの娘、メアリーについては追放先から呼び戻して自分の手元に置きたいと王に懇願するなど、慈愛のある女性だった。そしてヘンリーもこの願いを聞き入れた。

 

1537年ジェーンは妊娠して、男児を生んだ。

無事に男児が誕生し王も国中も歓喜したが、引き換えにジェーンは産じょく熱にかかり、みるみるうちに体力はおとろえた。

衰えた体をおして洗礼式にのぞみ、出産して12日後に息をひきとった。

暴君のようだったアーサー王はしばらく公務も手につかないほど、ジェーンを思ってひきこもって嘆いた。

ヘンリーの死後、ジェーンの生んだ男児は9歳でエドワード6世となったが、病弱なうえ、次期権力を狙う大人の画策にまきこまれ、15歳でこの世を去った。

 

 

4.アン・オブ・クレーブス1540年結婚、同年離婚)                    
 

 

ヘンリーとの結婚生活最短記録、なんと半年の王妃。

ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国のヨハン三世の娘という舌をかみそうな肩書。彼女が王と知り合ったエピソードが笑える。

側近であるクロムウェルにアンの肖像画を見せられたヘンリーは、その美しさに思わず、本人に会いたくなり、若い使い走りの少年に変装して会いに行く。

 

 

 

 

ところが肖像画と実物は大違い、激怒したヘンリーにアンは、どう見ても怪しい中年男にしか見えないあなたこそ、いきなり訪ねてこられて迷惑だと怒ったという。

 

この時すでにヘンリーは40代。若い使い走りの少年って笑い泣き無理あるやろ

おそらくは高コレステロール血症であったろうと考えられるような体型してた。

相手のルックスがどうのこうの言ってる場合か。

 

でも、この話の先がまだすごい。

 

結局、この肖像画は側近クロムウェルが宮廷画家に頼んで描かせたものだったが、この責任をとらされて、宮廷画家は追放、クロムウェルはこの件を政治的に敵対するノーフォーク公トーマス・ハワードに利用され、反逆罪で処刑された。

 

SNSで送られた写真が盛られ過ぎていて本人と違い過ぎ、それが政治的にも影響したという話になるのかなぁ。

 

自分の非は棚にあげて人に責任転嫁するヘンリーは、年金とアン・ブーリンの居城をだった城のひとつを財産に与え、王の妹という称号と引き換えに離婚した。

 

しかし、アン自身は身勝手な王から解放され、金銭的にも困らず、周囲にも気前よくプレゼントをしていた。

42歳で亡くなるまで、6人の王妃の中では最も幸せな生涯を送った王妃だろう。

 

 

ここまで、一気に書かせていただいたので読んでいる方も疲れてきたのでは。

 

ティータイムということで

 

 

ロジャー君にお茶をお願いしましょう。

 

 

 

 

 

                 ニヤニヤニヤニヤニヤニヤ


 

続けます。

 

 

5.キャサリン・ハワード1540年結婚、1542年離婚)             

 

父親は第二代ノーフォーク公トマス・ハワードの息子、エドムンド・ハワード。

エドムンドの父、トマスはヘンリー7世の時代から王に仕える名門の出であったが、エドムンドは金に困っていたため、持参金目当てで結婚しては妻に死なれ、再婚しては、連れ子も俺の子供!とていう感じで育てた。このため、キャサリンには、ハワード姓の兄弟がわらわらいて、恵まれない子供時代を送ったチーン

 

 

キャサリンは2番目の妻のアン・ブーリンのいとこで3番目の妻ジェーン・シーモアのはとこにあたる。

 

1539年、キャサリンの叔父であるノーフォーク公のつてで、キャサリンはヘンリー8世の4番目の妻、アン・オブ・クレーブスの侍女となる。

彼女の生年は明らかになっていなかったが、この時16か17だったと思われる。

 

 

 

彼女の若さ、美しさに当時、生活習慣病を患い体重は増え、足の痛みに苦しんでいたヘンリーは、彼女といることによって気分を紛らわすことができた。

彼女のことを「トゲのない薔薇」「女らしさの宝石」だのと賛美したという。

しかし、そんな結婚生活も長くは続かなかった。

 

彼女はやがて、母方の遠縁にあたるトマス・カルペパーや以前の恋人フランシス・デレハムとの不倫をうわさされるようになる。

実際、彼女は結婚して二年くらいしかたたない1541年ににカルペパーと会っていた。

 

また、デレハムとの関係に関しては、国王と知り合う以前にデレハムと婚約していたと言えば国王との結婚は無効になり、キャサリンは無罪になるはずだったのに、

なぜか

「婚約なんてしていません。私は乱暴されたのよ!」と言ってしまう。

カルペパーの事を意識したのか?

 

 

カルペパーとデレハムはその年のうちに、罪の重さを表す残酷な方法で処刑された。

結局、キャサリンは不義の罪をきせられたまま、1542年に処刑される。

 

キャサリンとカルペパーの逢瀬を手引きしたということで、侍女のジェーン・ブーリンも一緒に処刑された。

オドロキなのはジェーンは逮捕されてから、精神をわずらっていたため、処刑をまぬがれるはずだったのが、ヘンリー8世はわざわざ、精神に異常をきたしているものでも

処刑はできると法律を変えて彼女を処刑したらしい。

 

なんと残酷な王様。

 

「私は女王として死ぬが、カルペパーの妻として死ぬ方がましだ。」とキャサリンはなかなか立派な啖呵を切って処刑台に消えた。

 

後日談として、ハンプトン・コートには、無実を訴えようとするキャサリンの幽霊が夜な夜な目撃されるとある。ハンプトン・コートは国王へ彼女が無実を直訴した場所と言われているが、国王に直訴したという事実そのものがないという説もあり、真実のほどは不明。

 

しかし、よほどこの世に多くの執着を残して亡くなったのだろうと違う時代を生きている自分でもつい思ってしまう。

 

 

 


6.キャサリン・パー1543年結婚、1547年夫と死別)                     

 

ヘンリー8世の6番目そして最後の王妃になったキャサリン・パーは6人のうち、最も才色兼備で尊敬に値する女性だった。

2回の結婚をし、2回とも夫と死別。ヘンリーの3番目の妻、ジェーンの兄トマスと交際していたところ、ヘンリーがトマスをブリュッセルに追い払いプロポーズしたというからこのおっさん、相変わらずであった。

 

悩んだ挙句、キャサリンはプロポーズを受ける。

過去に妻を二人も処刑した男など普通だったら、嫌に決まっているだろうに笑い泣き

 

ヘンリーは暴君でどうしようもない王であるにもかかわらず、神学者であり哲学者のエラスムスと手紙を交換するほどの教養の持ち主だった。そのヘンリーと対等に学術の話ができるのが、このキャサリン・パーであった。

 

また、長年の生活習慣病で肥満、足の腫瘍に苦しんでいたヘンリーはこの頃にはかんしゃくを起こすと側近でも手をつけられない状態に陥っていた。

この扱いにくい病人を上手になだめて介護できるのが唯一キャサリンだった。

 

 

 

 

王妃になって、彼女が一番はじめにしたこととは、綺麗なドレスや宝飾を身に着けることではなく、1番目の妻キャサリン・オブ・アラゴンの娘メアリーと亡き2番目の妻アン・ブーリンの娘エリザベス(後のイングランド女王)の二人を追放先から呼び戻して王位継承権の地位に戻すことだった。

 

キャサリンの熱心な願いをさすがのヘンリーも聞き入れ、イングランド議会でメアリーとエリザベスの王位継承権は異母兄弟のエドワード王子の次になったのだった。

アン・ブーリンの娘エリザベスは特にキャサリンを本当の母親のように慕ったという。

キャサリン・パーのまれに見る知性は旺盛な読書欲にあった。これが、後にカソリックとイングランド国教会の宗教対立の時に「異端者」として追及されることになるが書物を焼き捨てて、ヘンリーに潔白を証明した。

彼女の知性はヘンリーの海外遠征の際、まだ成人していないエドワードになりかわって国王代理を務めるほどだったという。

 

 

 

結婚から4年後の1547年。ヘンリーは55歳で崩御する。

 

感染症がうつるかもしれない心配のため城から遠ざけられていたキャサリンは結局死に目に会えなかった。

 

ヘンリーの遺言でキャサリンは、彼の死後も王妃としての地位を確約され、年に7000ポンドという高額な年金も保証されていた。

この時代のパン屋さん夫婦の家庭の経費が載っていたサイトによると週にかかる経費が6ポンド10シリング1ペニーとあった。

 

貨幣価値の変動が激しかった時代なので、単純計算はできないにしても破格な年金には間違いない。

 

しかし、キャサリンは王の死後エドワード王子の戴冠式を見届けると、さっさと城を跡にして、かっての恋人トーマスと結婚してしまう。

これが、トーマスの叔父のエドワード・シーモアや彼の二番目の妻、アン・シーモアのカンにさわり、アンはキャサリンにもはや王の妃の資格はなく、妃であった時代の宝石を身に着けるのもあなたではなく、私だと主張するメラメラ

 

 

 

というのも、即位したばかりのエドワードの保護者は彼女の夫であるエドワード・シーモアだからだ。・・・・って同じ名前ばかりでややこしいニヤニヤ

 

結局、キャサリンはこの議論に負け、シーモア家との仲も断絶し、トーマスとエドワード叔父との仲も悪くなった。

まあ、知性で勝負のキャサリンにとって、宝石の一つや二つどうってことなかったかもしれない。

 

これから、ほどなくしてキャサリンは一冊の本を出版する。

本を執筆する王妃。凄い・・・・。

ヘンリー王の亡くなる前年に書いたものと言われるが、題名は「罪人の嘆き」

 

王妃自らの過去の罪に対する告白本ともいえるこの本は今でいうベストセラー的ブームを巻きおこした。

 

 

 

 

トーマスとの結婚、半年でキャサリンは初めての妊娠をする。

 

出産まで過ごしたグロスター州のスードリー城での日々が彼女の心休まるひとときだったことだろう。

 

1548年8月30日に彼女は女の子を出産する。彼女が愛したキャサリン・オブ・アラゴンの娘の名にちなんでメアリー・シーモアと名付けられた。

しかし、産後の衛生状態が良くなかったせいか、産褥熱にかかり9月5日に亡くなった。

 

彼女の葬儀はイギリス、スコットランド、アイルランドでプロテスタントとして行われた最初の葬儀だった。

娘のメアリー・シーモアの記録は2歳までしか残っていないと言われる。

幼少時に亡くなったのかどうかは定かでない。

 

ちなみにキャサリンの夫トーマスの叔父エドワードは、キャサリンの死後、エリザベスと結婚し、王室を支配しようと画策していたが、反逆罪で処刑されている。

 

 

こうやって見てみますとヘンリー8世に翻弄された王妃たちの生きざまは、6人それぞれに違っている。

 

女性が男性の出世のための道具とされた封建時代、限られた環境の中でも精一杯に自分を鼓舞して生き残ろうとするもの。さっさと見切りをつけて、離婚するもの。

それぞれが個性豊かで情熱的で面白い。

 

 

そして、人間関係のややこしさとドロドロ感はイギリスお得意のソープドラマの題材にもなるわけですね。

 

 

 

THE TUDORS〜背徳の王冠〜(2007)

 

16世紀イングランド王国を舞台に、国王ヘンリー8世の波乱に満ちた後半生を描いたドラマ。アメリカ(ショウタイム)・カナダ(CBC Television)・アイルランド(TV3)・イギリス(BBC Two)合作。

エミー賞は2007年に衣装賞とメインテーマ音楽賞、2008年に衣装賞、2009年に撮影賞、2010年に美術賞と衣装賞を受賞した。ゴールデンリール賞は2010年に音響編集賞を受賞した。

日本では、2009年11月からAXNミステリーおよびIMAGICA BSで放送された。

                                                               引用元     Wikipedia

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お詫び

 

最初はリック・ウェイクマンの「ヘンリー8世と6人の妻」にも触れようと思っていたのですが、このチューダー朝のどうしようもない王様の話で一杯一杯になってしまい、おまけに時間がなくて更新が伸び伸びになってしまいました。

 

なので、リック・ウェイクマンについては②でお届けいたします