ある日ふと思った。
今まで何気に聴いていたロックン・ロールとロック、この二つは異なるものかそれとも同じものなのか。
その境界線ってどこにあるのだろう。
調べてみたので、ちょいと長くなりますがお付き合いください。
以前、この記事を書くためにちょっと歴史をかじってみた。
再度まとめますと、
- ロックンロールの前身はレコードがなかった時代に楽器店の店頭で楽譜を売るためにピアノを弾いたり歌ったりしたティン・パン・アレイ(どんちゃん騒ぎ)というスタイルがもとになっている。
- 性的、政治的、宗教的なメッセージはなく、歌詞も画一的。
- やがて、フランク・シナトラやジョニー・レイなど、曲だけではなくキャラクターを前面に押し出す歌手が出てくる。エルビス・プレスリーの登場で独自の曲を独自のスタイルで歌うというロックン・ロールのスタイルが定着した。
また、ロックン・ロールには黒人音楽が影響を与えていることも落としてはならない。1950年代まで横行していた人種差別は、ブルース、ジャズ・ゴスペルなどのレコードをレイズ(人種)レコードと呼び、区別していた。
そのなかで、ブルースがロックン・ロールに発展していった。
ブルースの歴史は古く、奴隷解放後もつらい労働に従事していた黒人の憂鬱(ブルーズ)から生まれたと言われている。
黒人たちが、都市部に仕事を求めて流れ込み、ロックンロールはエレキ・ギターの誕生とともにポップなものに進化していった。
しかし、その後登場してくるボブ・ディランやビーチ・ボーイズ、ビートルズはカントリー・ミュージックの流れをくんでいると言われている。
ここから、ロックのルーツはひとつでなく、人種や環境がからみ合って、派生していったものだという事ができる。
60年代のサンフランシスコは「解放」の象徴だった
実は、この曲が流行る3年前、サンフランシスコの隣町にあるバークリー大学でおこったひとつの運動がその後のアメリカを大きく動かすことになる。
それが、フリー・スピーチ・ムーヴメント
それまで、タブー視されていた性や政治を語ることを大いにやろう!というものだった。時はまさに、ニューヨークで警官に黒人青年が殺されたり、アメリカがトンキン湾に侵攻したりした激動の時代。
これが、ベトナム反戦運動や学園闘争につながっていく。
この運動をひろめていったのが、コミューンと呼ばれる共同体に住み、ドラッグを吸いながら、インドの思想や宗教を語る白人中産階級出身の若者たちだった。
彼らはご存知
フラワー・チルドレンまたはヒッピーと呼ばれるようになる。
この頃、というか数年遅れて日本の田舎にもこのブームが来た。
皆が揃いもそろってpeaceマークのバッジつけて、チューリップハットかぶってた。
多分あれ、大阪万博からこっちはいってきたんじゃないか。
意味もわからず、やってたんだろうね。
余分なものを持たず、消費社会に徹底して反抗した彼らの姿にミュージシャンたちも
惹かれていった。
そして、やがてサンフランシスコにイベント・メーカーが設立される。
イベントメーカーはライヴ劇場をつくり、照明や油膜の反射で幻想的なステージをつくりあげる。
バンドはクラシックやインド音楽を融合させたサイケデリック・ロックを長時間、即興で演奏した。
これが、現在のロックのライヴスタイルの元祖的なものだと思われる。
代表的なものはジェファーソン・エアプレインの「ホワイト・ラビット」
バックでチラチラ動いているのが、油膜をモチーフにしたもので、歌っているお姉さんは、グレイス・スリック。
この人の加入で、バンドはブレイクした。
この摩訶不思議な歌声と、バックの油膜で「不思議の国のアリス」の幻覚キノコ疑似体験ができた。
早い話が、LSD効果
うーん、古いけどなんか新しい。
ちなみに当時は、日本のゴーゴークラブや子供向けゴジラ映画でもこんな演出使われていた。
モンタレー・ポップ・フェスティバルと商業ロック
そして、この時出演したアメリカでは無名のジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンはこのフェスを境にスターの階段をのぼっていく。
発達したメディアはサンフランシスコの出来事を、ニューヨークやロンドンに伝えた。この頃、「スゥインギング・ア・ロンドン」と呼ばれたロンドンは、機材を破壊しながら演奏するどんちゃん騒ぎ的なバンドがでてくる一方、ロックは一儲けできると思惑を巡らせる音楽関係者が、入り乱れて新しい流れを作り出していた。
クリームやヤードバーズ、フリート・ウッド・マック、スモール・フェイセスなど大型新人が続々登場した。
フレディ・マーキュリーが様々なバンドと転々としながらも、自身のバンドを作ろうと思いを巡らせていたのもこの頃である。
俺はまだ本気出してないだけ
60s イギリス大型新人バンドの皆さん
上からフリード・ウッド・マック
左 ヤードバーズ
右 クリーム
ジェフ・ベック、眼力がハンパない。ジンジャー・ベイカーはこの頃から70代にしか見えないw
当時のロンドンでは、“Don’t trust anyone over 30”(30歳以上は信じるな)
という合言葉があった。
体制や保守的な考えにどっぷりつかった大人を嫌う若者文化から生まれたことばだが、この時期に30歳未満のロック・シンガーたちが軒並み亡くなっている。
ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ブライアン・ジョーンズ(ローリング・ストーンズ)などなど。
皆、27歳だった。
自分も否が応でも年をとってしまう。汚い大人になる前に死んでしまいたいという不安や衝動が過剰な薬物摂取にも走らせたのだろうか。これ以降、ロックとドラッグは切り離せない関係であり続ける。
ジャニス・ジョプリンはスターになればなるほどファンが自分から離れていくという強迫観念に耐えられず、薬物におぼれてしまった。
愛と平和の共同体を求めた60年代は、その象徴のようなアーティストの死とともに終わりに近づこうとしていた。
ロック~時代は新たな音楽シーンへ
この時期、アメリカで活躍していたバンドと言えば、1966年にニールヤングを中心に結成されたバッファロー・スプリングフィールド。
ナイトクラブの閉鎖に若者が反抗した都市暴動を歌った「フォー・ホワット・イッツ・ワース」は100万枚を売り、ゴールドディスクに輝いた。
エレキ・ギターの音をアンプで拡張させるというエレクトロニクスの発達は音楽をより刺激的にした。またステージをライトで演出するという視覚的な効果とも重なって、ライヴはより過激になっていった。
聴覚と視覚に訴えかける音楽は、この頃からロックと呼ばれるようになった。
ニューヨークから誕生したヴェルヴェット・アンダーグラウンドは、アンディー・ウォーホールがデビューアルバムのジャケットを手がけるなど、話題をつくった。
最先端の流行と音楽を結び付けた彼らは、やがてデビット・ボウイなどのロックを芸術化していくアーティストたちに影響を与えていくようになる。
しかし、レコードが売れ、人々がライヴに熱狂すればするほどロックには商業主義がつきまとうようになる。
ドアーズのフロントマン、ジム・モリソンは体のラインを引き立たせるレザーのパンツをはき、セクシャリティーなパフォーマンスがメディアにどう映るか意識して行っていた。
彼の人気が増すにつれ、TVは歌詞の内容を変えて歌う事を要求し、ライヴでの行状は逮捕さわぎになった。ストレスを紛らわすためのドラッグと飲酒は、スタイリッシュだった彼の人相と体型をすっかり変えてしまった。
1971年、パリのアパートのバスタブで不審死をとげた。一緒にレコーディングしたこともあるジミ・ヘンドリックスの死の翌年。彼と同じ27歳だった。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドもレコード会社とフロントマンのルー・リードとの4枚目のレコーディングに関係するいざこざからルーが失踪。そのまま、脱退してしまった。後にこれは、売れることへの焦りとアルバムの仕上がりに不満をもったルーのレコード会社のせいにしてしまおうという思惑があったのではないかと言われている。ルーはその後、ソロで活躍した。
こうやってロックとビジネスが、結びついていった片方でアーティストは自分のアイディンティティを求めてさまよっていた。
それは、60年代に時代の寵児として登場し、すでに成功した大物バンドでさえ例外ではなかった。
僕らの音楽とは関係ない~そしてビートルズはライヴをやめた
事の発端は1966年3月4日だった。
イギリスのタブロイド紙「ロンドン・イブニング・スタンダード」の女性記者だったモーリーン・クリーブはアメリカ公演前のジョン・レノンにインタビューする。
そこで、ジョンのあるトンデモ発言が物議をかもすことになる。
僕たちビートルズの方がキリストよりも有名なんだ
リンク元https://47shoelane.wordpress.com/landmarks/bigger-than-jesus/
これが、後に有名になる「キリスト発言」
いや、何も自分がキリストだっていったわけじゃないだろうに。
この発言、本国イギリスではほとんど問題にならなかった。
だが、アメリカでは違った。
南部ではビートルズのレコードの排斥運動が起こり、白人至上主義の秘密結社KKK(クー・クラックス・クラン)もビートルズの人形を焼いて、気炎をあげた。
ジョンと、モーリーンとはもともと友人同士であり、このインタビューも一歩踏み込んだ内容になっていた。
ジョンはあくまで、ビートルズを自分と切り離して抽象的に語り、人気のあるもののたとえとして出してきたに過ぎなかった。
今の日本でも言われているじゃないか。
「この曲、まさに神曲」とか「神対応」とかね。
それと、一緒だった。
それが、実際記事になってみたら俺たちの方が上的な表現になっていた。
モーリーンも自分の書いた文脈が無視されて引用されたと述べている。
参照記事
会場となったキャンドルスティックパークは4万2500人収容できる広さだったが、2万5000人分のチケットしか販売されず、プロモーターの地元企業は赤字だった。
もともとが、野球場なのでガランとした会場の物々しい警備とファンの嬌声がアンバランス・・・
ビートルズをとりまく時代背景がわかり過ぎるほどわかるライヴだった。
仮想世界の仮想のバンドの歌、社会の中の個人や老いをテーマにした歌。面白いのは、ケロッグのコーンフレークのCMを見ていて思いついた歌など多種多様なテーマがこのアルバムにはあった。
あらゆる方面での著名人のコラージュや日本のお土産で買ったジョンの福助人形などをオブジェのように配置したデザインもレコード・ジャケットは芸術になり得るというところを証明してみせた。
余談ですが、このアルバムの中の「ホエン・アイム・シクスティ・フォー」は何となく曲調がフレディが歌う「シーサイド・ランデヴー」に似ている。
しかし、マルチ・トラック・テープレコーダーという録音技術の進歩は、メンバーが一緒にいなくてもレコードをつくれるようになった。
メンバーがそれぞれに録音した精巧な音をアメリカの作家でありジャーナリストのリチャード・ゴールドスタインは、「まばゆいが、最終的には詐欺」と痛烈に批判した。
1967年6月から1968年2月までの27週間、イギリスのチャートの一位を独占した。
ファンの熱狂の中で歌うバンドとしての姿は消えてこれからのビートルズはメンバー個人のライフスタイルを重視するようになった。
1967年、8月彼らのマネージャーのブライアン・エプスタインが急死。
この3年後に解散するまで、マネジメント問題、会社設立とメンバー間の対立など困難な問題を解消しながら、創作活動を続けていくことになる。
すでに、ロックが愛と平和を歌っていた時代は過ぎようとしていた。
聴衆が30万にとも40万人とも言われるウッド・ストックをはじめとする大規模なロック・フェスティバルを頂点として、ロックの社会的な背景は変化しつつあった。
参考文献・サイト
Wikipedia
参考文献 ロック史 北中正和 (立東舎刊)
( ´_ゝ`)フーン
最初はロックン・ロールだったものが政治的なメッセージや性やドラッグなどの社会的背景を帯びてロックに変化したとも言えるし、別なジャンルとして登場したものもあると言えるのですね。
最初、このテーマは時系列に書こうとしてたのですが、なかなかしんどくなってきたので、興味関心ある時代やアーティストを不定期ですが、書いていきたいと思います。おつき合いくださりありがとうございました。
クイーンのトップ・オブ・ザ・ポップス動画おまけです。(好きやなあ私も)
オーディエンスの若者たちは踊っていないが、クイーンの方は表情も豊かになって、パフォーマンスもこなれてきている。
ブライアンはレスポールを弾いている。
ロジャーは相変わらず、少年愛を感じさせるほど可愛いいし、フレディのマイクスタンドを微妙に震わせるパフォーマンスもいいし、ジョンの固まった表情から一転、天使が舞い降りたような笑顔は何だ。
ほぼ病気ですね