今年は映画ちゃんと観よう!という気持ちで感想です。ネタバレがんがんあります。

 

観たやつ→ロング・ウェイ・ノース/ディリリとパリの時間旅行/パラサイト 半地下の家族/家族を想うとき/マリッジ・ストーリー/ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス/ジョジョ・ラビット

 

レミ・シャイエ『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』

とにもかくにも画の美しさがものすごかったです。サンクトペテルブルクの街並み、屋敷の調度にかかる柔らかなライティングから、大胆なレイアウトで描かれる北極の海、クレバス、ブリザードの身構えるほどの迫力。可愛すぎる犬。主線を排した絵柄の、貼り絵のような濃淡に吸い込まれるようでした。

尺の短さも若干シンプルすぎるシナリオも、画の美しさに注視させる導線として機能していたように思います。ヘタに冒険活劇にしない勇気。

観た映画館の暖房が不調で、ちょっとした4DXでした。良い体験。

 

 

ミッシェル・オスロ『ディリリとパリの時間旅行』

メラネシアの少女ディリリの、ノーブルかつ愛らしい闊達さを軸に、美しい色彩と細やかな演技と若干マジか!?ってレベルのCGで展開される、素朴なフェミニズムと文化礼賛の映画でした。

タイムトラベルものなのかと思わせて別にそういう訳でもないんですが(原題も『Dilili à Paris』で時間要素なし)、「時間旅行」という言葉は大いに示唆的だなと思いました。人種やジェンダーに対する現代的な感性を携えて過去を振り返る(それを素材に物語を作る)事は、懐古話とも歴史劇とも単純には同一視できない、からこそのこの邦題だったのかなと。それはタランティーノが『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でやろうとした事と通底するし(ワンハリの邦題は『クウェンティンとハリウッドの時間旅行』でも良かったかもしれない(?))、良きにつけ悪しきにつけ「無邪気」とか「素朴」って印象とも接続する。芸術や科学技術の発展が寛容の精神を培うのだという強靭な信念は眩しく納得できるものだけれど、21世紀に生きている私たちは今や、ノブレスオブリージュが絶滅寸前であることを知ってしまっているので……大いに肯きながらどこか小骨が刺さったような気持ちで観てしまったというのが正直なところです。

私はベルエポックの時代にもフランスの文化人にも全く疎いのでパンフレットは必須でしたが、詳しい人が観ればもうアベンジャーズ的に楽しいのではないかな。カミーユ・クローデルの事、恥ずかしながら知らなかったです。知った後に反芻してみると、ちょっとワンハリにおけるシャロン・テートみたいな位置づけだったな、とか。

マジか!?と言いつつCG結構見どころだとも思う……特に犬……。もぎたてみたいな3Dモデル凄いから見てほしい……。

 

 

ポン・ジュノ『パラサイト 半地下の家族』

もう、べらぼうに面白くて隙の無い、良き映画でした。水は下に向かって流れる。下水は上へと逆流する。机の下でも繋がるWi-Fi。レトルト麺の中の高級牛肉。見立てと対比に溢れた、感情の動きすらそっくり含めて「構図」そのもののような映画。とりわけ完璧だったのが「予感」のコントロールで、次の瞬間に起こりうる悲喜劇に身構えさせながら、予想の一段先へと踏み外させる手練手管の連続、なすすべなく滑り落ちていく快感がありました。途中の大仕掛けには何となく既視感があってそんなに驚かなかったんですが、『フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと』のとあるエピソードとか『クリーピー 偽りの隣人』の事が無意識に頭にあったからかもしれない。

「構図」そのものと言いつつ、ステレオタイプを弄している訳では当然無く、だからこそ心の弱い部分に一段深く刺さってしまいました。身に覚えのある感情をこうも逃げ場なく見せつけられると……。物質的な豊かさや文化的資本以上に、洗練された身振りや性根の善を目の当たりにした時「身の丈」を自覚させられるんですよね。「金持ち」の卑しい部分やダサい部分を必死こいて探してる途中、ふと我に返る時、体の内側に向かって生えてくる「身の丈」という棘を。

 

同じ空間に対峙するその人の目の中の網に、自分の存在がどこにも引っ掛からず滑り落ちていく時の惨めさ。「居心地の良い」底辺に自らを封じ込め、尊厳の無い充足に満足を偽る哀しさ。大きく奪われ続けている事に目をそらし、掠め取る側を気取る愚かさ。殺意すら重力に勝てないどうしようもなさ。呪詛というにはやり場のない、汚水のように溜まる空しさ。身の丈ボコボコスタンプラリー。なんかめちゃめちゃ書いてますね……止まらなくなる……。

ともかく、大好き!というにはちょっと隙が無さ過ぎたけど、思うところが噴出しまくる大変面白い映画でした。ミッドタウン日比谷で観たので、上映後歩きながら苦いつばが出まくりました。

 

 

ケン・ローチ『家族を想うとき』

ほんっとうに『パラサイト』の後に観てよかった……。ジャンル映画が当然取りこぼす社会のひだの部分こそが中心に映されていて、同じ格差社会の苦い話なのに、かえって心の安定が保たれるような気持ちになりました。フランチャイズという「発明」で、本来支払うべきコストを当人や社会保障になすりつけて悪びれもしない企業のフリーライド根性に、もう、もう、暴動しかないわね……とお気持ちになりつつ、映されている人々は終始適切な距離と柔らかな光の中で尊厳を保たれていて、とてもつらい展開でも心にすっと染み入ってきました。例えば息子の反抗一つとっても、そこに至るプロセスや環境を丁寧に描き出すことで、家族間の軋轢に対して当人の資質に責任を負わせすぎない優しい視点があったなと思います。しかし問題やストレスを思いやりで乗り越えていったとしても、それすら単なるメンテナンスコストとして利用されてしまう出口の無さ。家族の間を巡る愛情に、システムの側こそが寄生している構図、ぼ、暴動!!!!

(あと、作中の家族の絆が深い分、家族関係の破綻した人や家族の無い人たちの現実はもっともっと苛烈なものだと思うので、「本来このような階層にいるはずじゃない人たち」すら抜け出せない新自由主義社会、というアプローチなのかな、それでこぼれるものはあるかもな、とはほんのちょっぴり思いました)

 

 

ノア・バームバック『マリッジ・ストーリー』

普段あまり観ないタイプの映画なのですが、人に薦められたのと『ブラック・クランズマン』での佇まいにアッ……アッアッ……となったアダム・ドライバーが出ていたので。前2本が2本だったので、パワーカップルだな……って感想が真っ先に出ちゃったのですが、面白かった!スカーレット・ヨハンソンのユニセックスな魅力が爆発してたしアダム・ドライバーは上半身が変に分厚くて最高だった。あとスカヨハ姉(メリット・ウェヴァー)のシーン、声出して笑っちゃうくらい良かったんですが、『マーウェン』のおもちゃ屋店員役の彼女だったのね。気付かなかったです。

社会の中で生きている限り身一つなんて幻想で、職や実家や世間体みたいな外側のネットワークに伸ばす脚まで含めた総体を個人と呼ぶのであって、家族をやっていく事ってそういうタコ足同士が奇跡的に、努力の末、見て見ぬふりをしながら、絡み合うことなんだな……やば……ムッズ……無理では……という気持ちになりました。

一番グッと来たアダム・ドライバーはうっかり包丁で腕切ってキッチンの隅にうずくまって転がるも息子からは無視されるアダム・ドライバーでした。唯一無二の情けなさが出てたんだ。

 

 

フレデリック・ワイズマン『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』

観よう観ようと思ってたら結局2020年になってしまった。開幕即ドーキンスでちょっと笑いました。映っているものが全てだし、「図書館は民主主義の柱である」という信念にほぼ完全同意なのでそんなに書くこと無いのですが、予算をもぎ取るプロセスが繰り返し登場するところが本当に良かったです。資金繰りについて映すのって誠実。

「寛容」の実践がまさにあるなと思いました。ここまでやるんだ!と驚きの連続。スクリーンで観られてよかった。

 

 

タイカ・ワイティティ『ジョジョ・ラビット』

こどもの主観として描くことを徹底している映画だったな。個人的には『崖の上のポニョ』を観た時に感じたいびつさ、おそらく意図的な、に近いものがありました。主人公ジョジョが見聞きした事、知っている事、あるいは薄々気付いている事だけで作品世界は構築されていて、リアリティラインが奇妙な場所で浮遊していました。イマジナリーヒトラーは勿論、ゲシュタポの男の極端な長身やレベル・ウィルソン演じる女性党員の豊満さ、幼児性の強いカリカチュアライズなどは、こどもの主観がゆがめた世界を表すギミックだったのではないかと。だから後半にかけて画面から色彩が急速に失われていくのは、戦争末期という表現以上にジョジョの主観世界の広がりを表しているのだろうし、本質はやっぱり少年の成長譚なのだろうと思います。

だからこそナチズム信奉という罪を少年の形で受肉させユダヤ人の少女と交流させる事と、子どもに罪はなく大人と環境に責任があるという真っ当なステートメントが組み合わさる事で、ある種の免罪符ととられかねない危うさは確かにあるなとニイさんの感想を読んで思い至りました。ジョジョが何を代表しているのかは慎重に検討した方がよさそう。

と、言いたいことは色々ありつつ、キャストの強靭な愛らしさには終始やられてしまいました。

また出たスカヨハはこちらでも卓越した魅力のママを演じていたし、脇カプこと大尉と部下も最高でしたね。戦場で着飾ってドンキホーテ的に見栄を切る男男の図とてつもなく良かった。あの後多分部下の方が先に死んでるのもビンビン来ました。あと私は太った子供が大好きなので……ヨーキー……アーチー・イエイツくん……あれだな……ソフトクリーム食べるか……?

でもやっぱり最後の、ユダヤ人の少女エルサの、ぎこちなくリズムをとる首の動きに全部持って行かれました。トーマシン・マッケンジーさん。おばけのフリの演技も大変素敵だった。

劇中曲の解説は、たまたま聴いてた「ジェーン・スー 生活は踊る」高橋芳朗さんのコーナーがとても参考になりました。 

あと、洋画に本当に疎いので、全編英語でドイツの話をやるのってどういう感覚なんだろうかと掴みかねてます。セルフ吹替みたいな感じなのかしら?この疑問からして島国根性なのかな。前情報殆ど入れずに行ったので、最初アメリカのネオナチカルトが子供洗脳してヒトラーユーゲントの真似事する話なのかな?と思っちゃったくらい。

 

 

 

『パワー』ナオミ・オルダーマン読みました。以下感想です(ネタバレあり)。

知ったきっかけはこの記事。

男女の力関係が逆転したら世界はどうなるのか? | 渡辺由佳里 | コラム | ニューズウィーク日本版 

https://www.newsweekjapan.jp/watanabe/2018/03/post-42.php

某ノシス某イクの「女尊男卑」設定が悪い意味で盛り上がった時にもちょっと話題になってましたね。

 

生体電気を操れるようになる「スケイン」という臓器が女性にだけ発現した事をきっかけに、男女の力関係が逆転した世界。虐げられていた女性たちによる革命がはじまり、支配の反転、独裁と圧制、そして大きな破壊へと至る「歴史小説」です。

エンタメSFとしてとても読みやすく面白かった!です。10代に読んでほしい。偽史ものの味付けはそこそこに、どちらかと言うと登場人物たちの内面にフォーカスして、想像と共感の糸を引き出していくタイプの読み口。

 

何よりスケインという設定の、物語の骨子としての存外な強靭さに魅かれました。設定もそれに連なる描写もかなり直接的で単純なミラーリングなのですが、その鏡像反転の軸に「性」ではなく「力」を据えている事自体が非対称性の本質を否応なく突き付けてくるというか。そして単純が故に強烈なカウンター(オートスキル)を、場外乱闘的にバチボコ決めてくるので妙な爽快さすらあります。

得たパワーに耽溺していく作中の女たちが男たちに為す行為は本当に不気味で残酷で、しかしこれらは現実世界で男が女に行っている仕打ちそのものである事を都度思い出し二重の吐き気に襲われます。同時に、パワー、力、暴力の持つ抗いがたい魅力、甘やかさについてもあけすけに書いてくれている所にグッときました。これ読んで一瞬でもスケインを欲しくならない女はいないでしょう。

話は飛びますがジョジョの奇妙な冒険ストーンオーシャンの何巻かの作者コメントで、荒木飛呂彦が取材で海外の女子刑務所を訪れた際に所長に女性の犯罪は男性のそれとどういう差があるのかと質問したら、女も男も犯す犯罪の内容に違いは無いと言われたという話が自分のジェンダー観の根元のほうにあったりして(その割にうろ覚えなのどうなのという感じですが)、要はのっぴきならない状況に追い詰められた時に発露する本質の、ようなもの、は、邪であれ善であれ性差を超えて同じであってほしいという願望含みの思想です(実際は統計としての犯罪の量や傾向に性差があることは理解しています)。

『パワー』の中には、一度得たスケインを去勢される、与えられた力をもう一度奪われる人物が出てくるのですが、彼女の在り方に著者の祈りが仮託されている感がありました。なにかを与えられたとき以上に、なにかを剥ぎ取られたときに、そこに立っている二つの異なるものが同じであったと分かる。本作においてその「なにか」は「力」であり、それが天秤の両側から剥ぎ取られたとき、作中唯一の男女が心を通わせる瞬間が描かれるのです(そしてそれは大いに、現実世界に対する諦念であるとも思います。持たざる者は持つ者になれず、持つ者にそれを捨てろと言うことはできない)。

 

メタな仕掛けとして本作は、史学者で「男流作家」のニールが、自身が執筆した歴史小説『パワー』の講評を権威ある作家のナオミに依頼する、という構成の中にあります。この外枠部分(特に末文)自体の皮肉も相当で、読了後に感想を漁っていたら「いかにも女性が書いた小説~男が書いたらこうはならないはずだ~」というような文章を見かけちゃったのですが、こういう「読めてない」感想をすべて作品世界に巻き込んでしまう意地悪で鮮やかな仕掛けだなあと。

 

気になったところは妊娠出産の扱いがかなり透明なところでしょうか。この設定の中での扱いづらさは想像に難くないので、オミットするのも理解できるけれど。帯の「ディストピア」という惹句も最初気になった(誰にとっての「ディストピア」?)のですが、読んだ後に見ればこれも現実世界に対するカウンター、ブーメランそのもので、やるじゃん、と思いましたよ(何様)。




梶本レイカ『コオリオニ』凄まじい漫画でした。

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コオリオニ(下) (BABYコミックス)/ふゅーじょんぷろだくと

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00年代初頭に実際に起きた道警とヤクザの癒着事件(稲葉事件)を下敷きに、汚職警官の鬼戸圭輔(攻)と美人ヤクザの八敷翔(受)二人の破滅的な人物が地獄へ相乗りしていく様を描いた裏社会BLなのですが、上下巻とは思えないほどに濃密なストーリーテリング、陰惨で苛烈な暴力&性描写、そして寄せ木細工のように組み合わさっていく登場人物たちの内面、叙事と叙情ががっぷり四つに組み合った凄まじい完成度で、読了後思わず「とんでもねえな!!!」と叫んでしまいました。いや本当に。


※特に衝撃を受けたコマ。BL漫画ですよこれ。(『コオリオニ』下巻,ふぉーじゅんぷろだくと,8頁)

ハードな人体破壊やレイプ・拷問描写は読む上で若干ハードルになるかもしれませんが、専門用語の解説も過不足なく、出来事とそれに付随する登場人物たちの感情の流れも丁寧かつ筋道立てて導かれているので、漫画として思いの外読みやすいです。
(全然余談ですが、昔何かの本で「手の指が足りないヤクザは(ヘタ打った事を宣伝するようなものなので)出世できない」というような情報を知り、フィクションだとアイコン的に機能するのになあと思っていたのですが、コオリオニ読んで新たな知見を得ました。そうか足の指……。)
ケレン味あふれる画面構成や視覚的にも多層な台詞とモノローグのポリフォニー等、技法的な面でも完成度が高い本作ですが、とりわけ白眉なのが登場人物たちの多面性とその語られ方です。
初めから読者に開陳されるのではなく、同じ過去が異なる視点で反復されることで、徐々に剥き出しになっていくキャラクターの本性。小手先の伏線やトリックに頼らずここまでスリリングに出来るのか、と驚かされる構成の凄まじさは、ぜひ読んで打ち抜かれて欲しいと思います。上巻描きおろしの佐伯は言わずもがな、ベビーベッドの前に立ち尽くす鬼戸の姿が上巻と下巻で全く違う意味を孕んでいるのにも滅茶苦茶ゾクゾクしました。見え方が異なるというだけでキャラクターの誰も嘘をついていないのがまたすんごいんだ。

花に鳥、うなぎに山椒、ヤクザとBLは当然のごとく相性がいいのですが、商業的な要請もあってかどちらかの要素が味付け程度に抑えられている作品も多く。しかしそこにきて『コオリオニ』は、BL要素と裏社会要素とが、どちらが欠けても成立しない両輪となってフルスロットルに回転していて、本当に読んでいて度肝を抜かれました。
ヤクザと警察という合わせ鏡の組織に生きる二人が、似た者同士の嗅覚で互いを見つけ出し、依存にほど近い絆で結ばれながら悲劇的な結末へと雪崩れ込んでいく様は、深作欣二の傑作『県警対組織暴力』を思い返さずにはいられないくらいなのですが、ここに更に、ホモソーシャルを描く作品からはオミットされがちな「男同士の性愛関係」が乗っかることで、本作は他に類を見ない輝きを放っています。
ノワール作品のキモは、登場する男性たちを抑圧や収奪の客体として描くことで、人間の悲しさ、組織や社会のどうしようもなさを浮き彫りにする所にあると勝手に思っているのですが、BLという男性を「犯される身体」として描く文化がここに入り込み、男=犯す側の性という特権を突き崩すことで、より一層えげつない形での男性性の客体化が実行されるのです。
叩きつけ合うような性行為に耽溺する八敷と鬼戸のカップルは、お互いを食らい合うことで自己の存在を確認する双子の蛇のようであり、バディやブロマンスといった言葉では表出を許されないような剥き出しの情感がそこに顕現しています。奇妙に躁的に描かれる二人きりのシーンは、肉体的な快楽以上に、「居場所を見つけられた」喜びとまたそれを失うかもしれない不安がないまぜになっていることを表現しているのかもしれません。

巧みに物語世界に引きずり込まれた先で、喩えようもない感情の塊にぶん殴られる、物凄い読書体験をしました。優れたフィクション作品がおしなべてそうであるように、完成度とはまた異なる位相に強い意志のようなものが満ちていて、それは上巻あとがきの梶本先生の言葉からも一端を読み取れるのですが、今はもうただ、こんな傑作をよくぞ描いてくださった……!と五体投地するほかありません。品薄みたいですがASAPで重版するべきです。みんな読んでくれ……。

岡村星『ラブラブエイリアン』今更読んだらビックリするほど面白かったので、3巻が出ることを祈念して記事を書きます。

ラブラブエイリアン(1) (ニチブンコミックス)/岡村 星

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超科学力を持った宇宙人と妙齢の地球人女性たちが繰り広げるダダ漏れトーク漫画。兎にも角にも、会話劇としてのクオリティが尋常じゃないです。うねるようなテンポで次々と繰り出される尖った言葉の応酬、「クーラシェイカーのボーカル」「リッジレーサー2」「ジュネーブ条約で禁止されてるような拷問」といった謎チョイスな固有名詞、そしてエグめの下ネタの数々にただ呆然と殴られるしかなく、気が付いたらずっぷりハマっていました。

※エグめの下ネタ
(『ラブラブエイリアン』2巻, 日本文芸社, 70頁)

漫画というフォーマットで会話に比重を置いたシットコムを何話も展開させ続けるのは難しいと思うのに、ここまで面白く仕上げてるのは本当にすごいと思います(この辺りは此元和津也『セトウツミ』なんかにも感じます。あちらは漫才形式なのでまた別の縛りがあるとは思うのですが)。結婚式と披露宴の是非についての話が秋山vs桜庭の話にシームレスに移行していく様なんかくだらなすぎてたまりません。

何より私がこの漫画を好ましいと思うのは、登場する女性たちが、他者への非難や攻撃だけでなく、好意や敬意についても「本音」で語らっている所です。
「女のホンネ」系コンテンツが何かと向かいがちなマウンティング描写や「女の敵は女」言説を殊更に強調することなく、毎話語り合い続ける彼女たちの間では下品な悪口と素直な感謝とが同じ温度で交錯しているのです。
本音で語る=建前を剥ぎ取ることと、むやみに露悪的になることはイコールで繋がるものではなく。ネガティブな感情もポジティブな感情も、どちらにも差をつけずぶっちゃけていく姿勢は真の意味で「ホンネ系」を体現しているように思えます。

合コンで揉めに揉めた男性陣とも、続く話数で会話を重ねていき、なんだかんだで仲良くなっていったり。本音の言葉で構築された登場人物たちの関係性は少しうらやましく感じられます。
とにかく口が悪いし下ネタまみれの癖に不思議と痛快かつ爽やかなのは、好悪の感情に戸を立てないむき出しの会話に、コミュニケーションの一つの理想を見てしまっているからかもしれません。

『ラブラブエイリアン』おすすめです!宇宙人グッズ作ってくれ!!
(※ネタバレあるので読んでる人向けです)
『ゴールデンカムイ』ほんと面白いですね~。

ゴールデンカムイ 1 (ヤングジャンプコミックス)/野田 サトル

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狩猟グルメ顔芸漫画としてすっかり定評が付いていますが、本作のキモはやはりキャラクターたちの異常(なまでの個)性だと思います。
日露戦争帰りの主人公・杉元佐一がアイヌの少女アシㇼパと組んで、金塊の在処の暗号が刺青された脱獄囚人たちをとっ捕まえながら、同じく金塊を狙う新選組の残党や第七師団と戦う話なので、必然登場キャラクターは「悪いやつら」が多くなっていきます。彼らはそれぞれ本当にキャラが濃く、限られた話数の中で強烈に印象を残していきます。

中でも度肝を抜かれたのは、4巻終盤から登場する辺見和雄というキャラクターとその顛末でした。野生のイノシシに襲われ、必死の抵抗むなしく食い殺されてしまった弟の姿を見て、自分もいつか圧倒的な暴力に相対し極限の中で命の遣り取りをしたい、そして無残に殺されてしまいたい、という願望を持つサイコなキャラクターです。

※うずうずする辺見ちゃん。そもそもこのエピソード、何故か杉元と辺見のロマンチックラブストーリー仕立てになってて本当に意味が分からない。素晴らしい。(『ゴールデンカムイ』5巻, 講談社, 14頁)

自らを殺してくれる存在を求めると同時に、極限の状態であがく人間の姿が見たいあまり殺人衝動の赴くまま人を殺し網走刑務所に収監されていた囚人であり、己の欲望の邪魔になるのならば罪のない人間でも躊躇なく殺してしまえる、紛うことなき「悪いやつ」なのですが、一連のエピソードの中でなんと彼の願望は最高の形で成就します。
私は読んでいる最中、こういうキャラクターは自分の意とは真逆のつまらない死に方をするのが定石だろうと思っていたので、絶頂の中で最高に煌きながら死んでいった辺見ちゃんの姿に呆気にとられてしまったのです。そして「何だかんだ悪人なのだから」「報いを受けるはずだ」という、無意識下で働いていた勧善懲悪精神がキレイに裏切られたことに、たまらなくカタルシスを覚えてしまいました。

『ゴールデンカムイ』野田サトルインタビュー 「もっと変態を描かせてくれ!」複雑なキャラクターが作品をおもしろくする!!
このマンWEBに掲載されたインタビューで語られているように、ゴールデンカムイの登場人物たちは皆一筋縄ではいきません。設定上の主人公/敵役といった役割に対する読者の固定観念をブチ壊してくれるような強烈な性格を与えられていて、それがとても魅力的なのです。
物語の天秤を動かしているのは善悪や行為の正当性ではなく、生と死の間で張りつめる欲望であって、どれだけ悪人であっても変態であっても彼らが作中で「断罪」されることはないのです。
倫理道徳が骨子ではない。かといって露悪的な、クズほど得をするような物語でもない。「絶対の神様」がいない混沌とした世界だからこそ、登場人物たちの多面性と異常なまでの個性がぎらぎらと輝けるのでしょう。まさに野生。まさに生命力。勃起!!生あるいは死へと向かう欲望に、全力で身を投じる変態たちに対する、野田先生の深い愛情を感じてやみません。

ゴールデンカムイを読んでいると、ダイナミックなキャラクターはそれを活かす世界があってこそで、その逆もまた然りなのだと思い知らされます。本当にエネルギッシュな漫画だ。
このエネルギーはそのままお話の推進力とも直結していて、まだ5巻だということを忘れるくらいのドライブ感にビクンビクンします。ヤンジャン本誌を読む限り、今後も愉快な変態たちがたくさん出てくるようで楽しみでなりません。まさか勝新が……!


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以下は覚え書きも兼ねた余談

野田サトル先生はインタビュー(というか言動)も大変面白いです。
『ゴールデンカムイ』野田サトルインタビュー ウケないわけない! おもしろさ全部のせの超自信作!
※前述のインタビューの前編。“許すまじ『ダンジョン飯』です。”

「ゴールデンカムイ」特集 野田サトル×町山智浩対談 (1/3) - コミックナタリー Power Push
※町山智浩とのスカイプ対談記事。ここでもキャラクターの変態性についての話が。

ブログも何とも言えない味わいがあって面白いっす。
野田サトルのブログ
※取材の裏話が載っているので、漫画を読んだ後だと更に楽しい。可愛いホロケウカムイ。

ワンドロ(ファン主催のお絵かき企画)に作者自らR18絵を投稿するイカレたTwitterアカウント(@satorunoda)や、ヤンジャン本誌のコメント欄からも目が離せない。

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更に余談

前作の『スピナマラダ!』(全6巻)もめっっっっっっちゃくちゃ面白いので読んで……読んでください……Kindle出てるから……。
スピナマラダ! 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)/集英社

¥価格不明
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スポ根ものとして完成されてます。キャラクターそれぞれの心情描写がとても丁寧で、癖のあるキャラもとっても魅力的に描かれています。競技への熱いリスペクトをビシバシ感じると同時に、マイナースポーツであることに対する触れ方も真摯です。端々のとぼけたギャグも絶妙に効いていて、この読後感の良さはゴルカムへ継承されているんだなと。
スターシステム的に出てくるあの人にも注目です。めっちゃいいキャラだから!