応神天皇の死後数百年を経て、宇佐神宮の菱形池から、三歳の童子が現われ、八幡神は応神天皇の権化だと宣言した、という伝説がある。この話は、宇佐神宮の社伝に見える。社伝が成立した九世紀以降、八幡神は応神天皇の化身とみなされるようになって広く信仰を集め、全国で最も多く祀られる神となった。だが、死後数百年も経過した応神天皇が、なぜ大和地方から遠く離れた宇佐神宮(大分県)の主神として祀られるようになったのだろうか?古事記には、朝鮮半島の国々と交流を重ね、大陸の最新鋭の技術や文化を取り入れる応神天皇の姿が画がかれている。しかし、ここではまだ八幡神とのつながりは記されていない。

八幡神が誕生した宇佐の地は、朝鮮半島と日本をつなぐ要衝で、朝廷からも重視されていた。日本は古くから百済と交流を結ぶ一方、新羅とは緊張が絶えない関係にあったからだ。また、八幡神は元々、軍神として崇められる一方、国境を守る護国神として受容されていた。749年、聖武天皇が企画した大仏開眼会の準備のため、巫女に憑依した八幡神が入京し、日本の神代表として、皇室と深く関係を持つようになった。そして、このような八幡神への帰依や、新羅との関係悪化は、新しいイデオロギーを生み出した。神話で新羅を征伐したと語られる応神天皇の母・神功皇后への信仰が高揚していき、いつしか神代表の八幡神は、神功皇后と同一視され、対新羅神とみなされるようになった。応神天皇への信仰は副産物に過ぎなかったが、神官や官僚によって軍神の側面が強調され、軍神は応神天皇とみなされるようになった。